て、特に矢島の名を斥《さ》して招請するものさえあった。五百も比良野|貞固《さだかた》もこれがために頗《すこぶ》る心を安んじた。
既にしてこの年二月の初午《はつうま》の日となった。渋江氏では亀沢稲荷の祭を行うといって、親戚故旧を集《つど》えた。優善も来て宴に列し、清元《きよもと》を語ったり茶番を演じたりした。五百はこれを見て苦々《にがにが》しくは思ったが、酒を飲まぬ優善であるから、よしや少しく興に乗じたからといって、後《のち》に累《わずらい》を胎《のこ》すような事はあるまいと気に掛けずにいた。
優善が渋江の家に来て、その夕方に帰ってから、二、三日立った頃の事である。師山田|椿庭《ちんてい》が本郷弓町から尋ねて来て、「矢島さんはこちらですか、余り久しく御滞留になりますから、どうなされたかと存じて伺いました」といった。
「優善は初午の日にまいりましたきりで、あの日には晩の四つ頃に帰りましたが」と、五百は訝《いぶ》かしげに答えた。
「はてな。あれから塾へは帰られませんが。」椿庭はこういって眉《まゆ》を蹙《しか》めた。
五百は即時に人を諸方に馳《は》せて捜索せしめた。優善の所在はすぐに知れた。初午の夜《よ》に無銭で吉原に往《ゆ》き、翌日から田町《たまち》の引手茶屋《ひきてぢゃや》に潜伏していたのである。
五百は金を償って優善を帰らせた。さて比良野貞固、小野|富穀《ふこく》の二人《ふたり》を呼んで、いかにこれに処すべきかを議した。幼い成善も、戸主だというので、その席に列《つらな》った。
貞固は暫く黙していたが、容《かたち》を改めてこういった。「この度の処分はただ一つしかないとわたくしは思う。玄碩《げんせき》さんはわたくしの宅で詰腹《つめばら》を切らせます。小野さんも、お姉《あね》えさんも、三坊も御苦労ながらお立会《たちあい》下さい。」言い畢《おわ》って貞固は緊《きび》しく口を結んで一座を見廻した。優善は矢島氏を冒してから、養父の称を襲《つ》いで玄碩といっていた。三坊は成善の小字《おさなな》三吉である。
富穀《ふこく》は面色《めんしょく》土の如くになって、一語を発することも得なかった。
五百《いお》は貞固の詞《ことば》を予期していたように、徐《しずか》に答えた。「比良野様の御意見は御尤《ごもっとも》と存じます。度々の不始末で、もうこの上何と申し聞けようもございません。いずれ篤《とく》と考えました上で、改めてこちらから申し上げましょう」といった。
これで相談は果てた。貞固は何事もないような顔をして、席を起《た》って帰った。富穀は跡に残って、どうか比良野を勘弁させるように話をしてくれと、繰り返して五百に頼んで置いて、すごすご帰った。五百は優善《やすよし》を呼んで厳《おこそか》に会議の始末を言い渡した。成善はどうなる事かと胸を痛めていた。
翌朝五百は貞固を訪《と》うて懇談した。大要はこうである。昨日《さくじつ》の仰《おおせ》は尤至極である。自分は同意せずにはいられない。これまでの行掛《ゆきがか》りを思えば、優善にこの上どうして罪を贖《あがな》わせようという道はない。自分も一死がその分であるとは信じている。しかし晴がましく死なせることは、家門のためにも、君侯のためにも望ましくない。それゆえ切腹に代えて、金毘羅《こんぴら》に起請文《きしょうもん》を納めさせたい。悔い改める望《のぞみ》のない男であるから、必ず冥々《めいめい》の裏《うち》に神罰を蒙《こうむ》るであろうというのである。
貞固はつくづく聞いて答えた。それは好《よ》いお思附《おもいつき》である。この度の事については、命乞《いのちごい》の仲裁なら決して聴くまいと決心していたが、晴がましい死様《しにざま》をさせるには及ばぬというお考は道理至極である。然らばその起請文を書いて金毘羅に納めることは、姉上にお任せするといった。
その七十五
五百《いお》は矢島|優善《やすよし》に起請文を書かせた。そしてそれを持って虎《とら》の門《もん》の金毘羅へ納めに往った。しかし起請文は納めずに、優善が行末《ゆくすえ》の事を祈念して帰った。
小野氏ではこの年十二月十二日に、隠居|令図《れいと》が八十歳で歿した。五年|前《ぜん》に致仕して富穀《ふこく》に家を継がせていたのである。小野氏の財産は令図の貯《たくわ》えたのが一万両を超えていたそうである。
伊沢柏軒はこの年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橋埋地からお玉が池に居を移した。この時新宅の祝宴に招かれた保さんが種々の事を記憶している。柏軒の四女やすは保さんの姉|水木《みき》と長唄の「老松《おいまつ》」を歌った。柴田常庵《しばたじょうあん》という肥え太った医師は、越中褌《えっちゅうふんどし》一つを身に着けたばかりで、「棚の達
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