ことにしていた。書は喜多村栲窓《きたむらこうそう》の校刻する所で、月ごとに発行せられるのを、抽斎は生を終るまで次を逐《お》って上《たてまつ》った。成善《しげよし》は父の歿後相継いで納本していたが、この年に至って全部を献じ畢《おわ》った。八月十五日|順承《ゆきつぐ》は重臣を以て成善に「御召御紋御羽織並御酒御吸物」を賞賜した。
成善は二年|前《ぜん》から海保|竹逕《ちくけい》に学んで、この年十二月二十八日に、六歳にして藩主|順承《ゆきつぐ》から奨学金二百匹を受けた。主《おも》なる経史《けいし》の素読《そどく》を畢《おわ》ったためである。母|五百《いお》は子女に読書習字を授けて半日を費《ついや》すを常としていたが、毫《ごう》も成善の学業に干渉しなかった。そして「あれは書物が御飯より好《すき》だから、構わなくても好《い》い」といった。成善はまた善く母に事《つか》うるというを以て、賞を受くること両度に及んだ。
この年十月十八日に成善が筆札《ひっさつ》の師小島成斎が六十七歳で歿した。成斎は朝生徒に習字を教えて、次《つい》で阿部家の館《やかた》に出仕し、午時《ごじ》公退して酒を飲み劇を談ずることを例としていた。阿部家では抽斎の歿するに先だつこと一年、安政四年六月十七日に老中《ろうじゅう》の職におった伊勢守正弘が世を去って、越えて八月に伊予守|正教《まさのり》が家督相続をした。成善が従学してからは、成斎は始終正教に侍していたのである。後に至って成善は朝の課業の喧擾《けんじょう》を避け、午後に訪《と》うて単独に教《おしえ》を受けた。そこで成斎の観劇談を聴くことしばしばであった。成斎は卒中《そっちゅう》で死んだ。正弘の老中たりし時、成斎は用人格《ようにんかく》に擢《ぬきん》でられ、公用人|服部《はっとり》九十郎と名を斉《ひとし》うしていたが、二人《ににん》皆同病によって命を隕《おと》した。成斎には二子三女があって、長男|生輒《せいしょう》は早世し、次男|信之《のぶゆき》が家を継いだ。通称は俊治《しゅんじ》である。俊治の子は鎰之助《いつのすけ》、鎰之助の養嗣子は、今本郷区|駒込《こまごめ》動坂町《どうざかちょう》にいる昌吉《しょうきち》さんである。高足《こうそく》の一人|小此木辰太郎《おこのぎたつたろう》は、明治九年に工務省|雇《やとい》になり、十人年内閣属に転じ、十九年十二月一日から二十七年三月二十九日まで職を学習院に奉じて、生徒に筆札を授けていたが、明治二十八年一月に歿した。
成善がこの頃母五百と倶《とも》に浅草|永住町《ながすみちょう》の覚音寺《かくおんじ》に詣《もう》でたことがある。覚音寺は五百の里方山内氏の菩提所《ぼだいしょ》である。帰途|二人《ふたり》は蔵前通《くらまえどおり》を歩いて桃太郎団子の店の前に来ると、五百の相識の女に邂逅《かいこう》した。これは五百と同じく藤堂家に仕えて、中老になっていた人である。五百は久しく消息の絶えていたこの女と話がしたいといって、ほど近い横町《よこちょう》にある料理屋|誰袖《たがそで》に案内した。成善も跡に附いて往った。誰袖は当時|川長《かわちょう》、青柳《あおやぎ》、大七《だいしち》などと並称せられた家である。
三人の通った座敷の隣に大一座《おおいちざ》の客があるらしかった。しかし声高《こえたか》く語り合うこともなく、矧《まし》てや絃歌《げんか》の響などは起らなかった。暫《しばら》くあってその座敷が遽《にわか》に騒がしく、多人数《たにんず》の足音がして、跡はまたひっそりとした。
給仕《きゅうじ》に来た女中に五百が問うと、女中はいった。「あれは札差《ふださし》の檀那衆《だんなしゅ》が悪作劇《いたずら》をしてお出《いで》なすったところへ、お辰《たつ》さんが飛び込んでお出なすったのでございます。蒔《ま》き散らしてあったお金をそのままにして置いて、檀那衆がお逃《にげ》なさると、お辰さんはそれを持ってお帰《かえり》なさいました」といった。お辰というのは、後《のち》盗《ぬすみ》をして捕えられた旗本|青木弥太郎《あおきやたろう》の妾《しょう》である。
女中の語り畢《おわ》る時、両刀を帯びた異様の男が五百らの座敷に闖入《ちんにゅう》して「手前《てまえ》たちも博奕《ばくち》の仲間だろう、金を持っているなら、そこへ出してしまえ」といいつつ、刀《とう》を抜いて威嚇した。
「なに、この騙《かた》り奴《め》が」と五百は叫んで、懐剣を抜いて起《た》った。男は初《はじめ》の勢にも似ず、身を翻《ひるがえ》して逃げ去った。この年五百はもう四十七歳になっていた。
その七十四
矢島|優善《やすよし》は山田の塾に入《い》って、塾頭に推されてから、やや自重するものの如く、病家にも信頼せられて、旗下《はたもと》の家庭にし
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