ぬからであった。房之助は嘉永四年八月二日|生《うまれ》で、当時十一歳になっていて、学問よりは武芸が好《すき》であった。

   その七十二

 矢川氏ではこの年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋《かなものどいや》平野屋の女《むすめ》柳《りゅう》を娶《めと》った。
 石塚重兵衛の豊芥子《ほうかいし》は、この年十二月十五日に六十三歳で歿した。豊芥子が渋江氏の扶助を仰ぐことは、殆《ほとん》ど恒例の如くになっていた。五百《いお》は石塚氏にわたす金を記《しる》す帳簿を持っていたそうである。しかし抽斎はこの人の文字《もんじ》を識《し》って、広く市井の事に通じ、また劇の沿革を審《つまびらか》にしているのを愛して、来《きた》り訪《と》うごとに歓び迎えた。今抽斎に遅るること三年で世を去ったのである。
 人の死を説いて、直ちにその非を挙げんは、後言《しりうごと》めく嫌《きらい》はあるが、抽斎の蔵書をして散佚《さんいつ》せしめた顛末《てんまつ》を尋ぬるときは、豊芥子もまた幾分の責《せめ》を分たなくてはならない。その持ち去ったのは主に歌舞|音曲《おんぎょく》の書、随筆小説の類である。その他書画|骨董《こっとう》にも、この人の手から商估《しょうこ》の手にわたったものがある。ここに保さんの記憶している一例を挙げよう。抽斎の遺物に円山応挙《まるやまおうきょ》の画《え》百枚があった。題材は彼《か》の名高い七難七福の図に似たもので、わたくしはその名を保さんに聞いて記憶しているが、少しくこれを筆にすることを憚《はばか》る。装※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]《そうこう》頗る美にして桐の箱入になっていた。この画と木彫《もくちょう》の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳するといって借りて帰った。人形は六歌仙と若衆《わかしゅ》とで、寛永時代の物だとかいうことであった。これは抽斎が「三坊《さんぼう》には雛《ひな》人形を遣らぬ代《かわり》にこれを遣る」といったのだそうである。三坊とは成善《しげよし》の小字《おさなな》三吉《さんきち》である。五百は度々|清助《せいすけ》という若党を、浅草|諏訪町《すわちょう》の鎌倉屋へ遣って、催促して還《かえ》させようとしたが、豊芥子は言《こと》を左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助は本《もと》京都の両替店《りょうがえてん》銭屋《ぜにや》の息子《むすこ》で、遊蕩《ゆうとう》のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなかなか好《い》いので、豊芥子の筆耕に傭《やと》われることになっていた。それゆえ鎌倉屋への使に立ったのである。
 森|枳園《きえん》が小野富穀《おのふこく》と口論をしたという話があって、その年月を詳《つまびらか》にせぬが、わたくしは多分この年の頃であろうと思う。場所は山城河岸《やましろがし》の津藤《つとう》の家であった。例の如く文人、画師《えし》、力士、俳優、幇間《ほうかん》、芸妓《げいぎ》等の大一座で、酒|酣《たけなわ》なる比《ころ》になった。その中に枳園、富穀、矢島|優善《やすよし》、伊沢|徳安《とくあん》などが居合せた。初め枳園と富穀とは何事をか論じていたが、万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いに怒《いか》って、七代目|賽《もどき》のたんかを切り、胖大漢《はんだいかん》の富穀をして色を失って席を遁《のが》れしめたそうである。富穀もまた滑稽《こっけい》趣味においては枳園に劣らぬ人物で、臍《へそ》で烟草《タバコ》を喫《の》むという隠芸《かくしげい》を有していた。枳園とこの人とがかくまで激烈に衝突しようとは、誰《たれ》も思い掛《か》けぬので、優善、徳安の二人は永くこの喧嘩《けんか》を忘れずにいた。想うに貨殖《かしょく》に長じた富穀と、人の物と我物との別に重きを置かぬ、無頓着《むとんじゃく》な枳園とは、その性格に相容《あいい》れざる所があったであろう。津藤《つとう》即ち摂津国屋《つのくにや》藤次郎《とうじろう》は、名は鱗《りん》、字は冷和《れいわ》、香以《こうい》、鯉角《りかく》、梅阿弥《ばいあみ》等と号した。その豪遊を肆《ほしいまま》にして家産を蕩尽《とうじん》したのは、世の知る所である。文政五年|生《うまれ》で、当時四十歳である。
 この年の抽斎が忌日《きにち》の頃であった。小島成斎は五百に勧めて、なお存している蔵書の大半を、中橋埋地《なかばしうめち》の柏軒が家にあずけた。柏軒は翌年お玉が池に第宅《ていたく》を移す時も、家財と共にこれを新居に搬《はこ》び入れて、一年間位|鄭重《ていちょう》に保護《ほうご》していた。

   その七十三

 抽斎歿後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活版|薄葉刷《うすようずり》の『医方類聚《いほうるいじゅ》』を献ずる
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