齢《よわい》は諸書に異同があって、中に七十一としたものと七十六としたものとが多い。鈴木|春浦《しゅんぽ》さんに頼んで、妙源寺の墓石と過去帖とを検してもらったが、並《ならび》に皆これを記していない。しかし文集を閲《けみ》するに、故郷の安達太郎山《あだたらやま》に登った記に、干支と年齢のおおよそとが書してあって、万延元年に七十六に満たぬことは明白である。子|文九郎重允《ぶんくろうちょういん》が家を嗣いだ。少《わか》い時|疥癬《かいせん》のために衰弱したのを、父が温泉に連れて往って治《ち》したことが、文集に見えている。抽斎は艮斎のワシントンの論讃を読んで、喜んで反復したそうである。恐《おそら》くは『洋外紀略』の「嗚呼《ああ》話聖東《ワシントンは》、雖生於戎羯《じゅうけつにうまるといえども》、其為人《そのひととなりや》、有足多者《たりておおきものあり》」云々の一節であっただろう。
その七十一
抽斎歿後第三年は文久元年である。年の初《はじめ》に五百《いお》は大きい本箱三つを成善《しげよし》の部屋に運ばせて、戸棚の中に入れた。そしてこういった。
「これは日本に僅《わずか》三部しかない善《い》い版の『十三|経註疏《ぎょうちゅうそ》』だが、お父《と》う様がお前のだと仰《おっしゃ》った。今年はもう三回忌の来る年だから、今からお前の傍《そば》に置くよ」といった。
数日の後に矢島|優善《やすよし》が、活花《いけばな》の友達を集めて会をしたいが、緑町の家には丁度|好《い》い座敷がないから、成善の部屋を借りたいといった。成善は部屋を明け渡した。
さて友達という数人が来て、汁粉《しるこ》などを食って帰った跡で、戸棚の本箱を見ると、その中は空虚であった。
三月六日に優善は「身持《みもち》不行跡|不埒《ふらち》」の廉《かど》を以て隠居を命ぜられ、同時に「御憐憫《ごれんびん》を以て名跡《みょうせき》御立被下置《おんたてくだされおく》」ということになって、養子を入れることを許された。
優善のまさに養うべき子を選ぶことをば、中丸昌庵が引き受けた。然るに中丸の歓心を得ている近習詰百五十石六人扶持の医者に、上原元永《うえはらげんえい》というものがあって、この上原が町医|伊達周禎《だてしゅうてい》を推薦した。
周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢島氏の禄二百石八人扶持を受けることになった。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年|生《うまれ》で四十五歳になっていた。
周禎の妻を高《たか》といって、已《すで》に四子を生んでいた。長男|周碩《しゅうせき》、次男周策、三男三蔵、四男玄四郎が即ちこれである。周禎が矢島氏を冒した時、長男周碩は生得《しょうとく》不調法《ぶちょうほう》にして仕宦《しかん》に適せぬと称して廃嫡を請い、小田原《おだわら》に往って町医となった。そこで弘化二年生の次男周策が嗣子に定まった。当時十七歳である。
これより先《さき》優善が隠居の沙汰《さた》を蒙《こうむ》った時、これがために最も憂えたものは五百で、最も憤《いきどお》ったものは比良野|貞固《さだかた》である。貞固は優善を面責《めんせき》して、いかにしてこの辱《はずかしめ》を雪《すす》ぐかと問うた。優善は山田昌栄の塾に入《い》って勉学したいと答えた。
貞固は先ず優善が改悛《かいしゅん》の状を見届けて、然《しか》る後《のち》に入塾せしめるといって、優善と妻|鉄《てつ》とを自邸に引き取り、二階に住《すま》わせた。
さて十月になってから、貞固は五百《いお》を招いて、倶《とも》に優善を山田の塾に連れて往った。塾は本郷弓町にあった。
この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これは聊《いささか》の金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、また優善の修行中その妻鉄をも周禎があずかるが好《い》いといった。そしてこの二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾した。想うに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当って、株の売渡《うりわたし》のような形式を用いたのであろう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で、優善には屁《へ》の糟《かす》という渾名《あだな》をさえ附けていたそうである。
山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだ幾《いくばく》もあらぬに梅林松弥《うめばやしまつや》というものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学び、後《のち》此《ここ》に来たもので、維新後名を潔《けつ》と改め、明治二十一年一月十四日に陸軍一等軍医を以て終った。
比良野氏ではこの年同藩の物頭《ものがしら》二百石|稲葉丹下《いなばたんげ》の次男|房之助《ふさのすけ》を迎えて養子とした。これは貞固が既に五十歳になったのに、妻かなが子を生ま
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