斎の女《むすめ》の中《うち》では純《いと》と棠との容姿が最も人に褒《ほ》められていた。五百の兄栄次郎は棠の踊を看《み》る度に、「食い附きたいような子だ」といった。五百も余り棠の美しさを云々《うんぬん》するので、陸は「お母《か》あ様の姉《ね》えさんを褒めるのを聞いていると、わたしなんぞはお化《ばけ》のような顔をしているとしか思われない」といい、また棠の死んだ時、「大方お母あ様はわたしを代《かわり》に死なせたかったのだろう」とさえいった。
その七十
女《むすめ》棠《とう》が死んでから半年《はんねん》の間、五百《いお》は少しく精神の均衡を失して、夕暮になると、窓を開けて庭の闇《やみ》を凝視していることがしばしばあった。これは何故《なにゆえ》ともなしに、闇の裏《うち》に棠の姿が見えはせぬかと待たれたのだそうである。抽斎は気遣《きづか》って、「五百、お前にも似ないじゃないか、少ししっかりしないか」と飭《いまし》めた。
そこへ矢島玄碩の二女、優善《やすよし》の未来の妻たる鉄が来て、五百に抱かれて寝ることになった、※[#「虫+果」、第4水準2−87−59]※[#「贏」の「貝」に代えて「虫」、第4水準2−87−91]《から》の母は情を矯《た》めて、※[#「日+匿」、第4水準2−14−16]《なじみ》のない人の子を賺《すか》しはぐくまなくてはならなかったのである。さて眠っているうちに、五百はいつか懐《ふところ》にいる子が棠だと思って、夢現《ゆめうつつ》の境にその体を撫《な》でていた。忽《たちま》ち一種の恐怖に襲われて目を開《あ》くと、痘痕《とうこん》のまだ新しい、赤く引き弔《つ》った鉄の顔が、触れ合うほど近い所にある。五百は覚えず咽《むせ》び泣いた。そして意識の明《あきらか》になると共に、「ほんに優善は可哀《かわい》そうだ」とつぶやくのであった。
緑町の家へ、優善がこの鉄を連れてはいった時は、鉄はもう十五歳になっていた。しかし世馴《よな》れた優善は鉄を子供|扱《あつかい》にして、詞《ことば》をやさしくして宥《なだ》めていたので、二人の間には何の衝突も起らずにいた。
これに反して五百の監視の下《もと》を離れた優善は、門を出《い》でては昔の放恣《ほうし》なる生活に立ち帰った。長崎から帰った塩田|良三《りょうさん》との間にも、定めて聯絡《れんらく》が附いていたことであろう。この人たちは啻《ただ》に酒家|妓楼《ぎろう》に出入《いでいり》するのみではなく、常に無頼《ぶらい》の徒と会して袁耽《えんたん》の技を闘わした。良三の如きは頭を一つ竈《べっつい》にしてどてらを被《き》て街上《かいじょう》を闊歩《かっぽ》したことがあるそうである。優善の背後には、もうネメシスの神が逼《せま》り近づいていた。
渋江氏が亀沢町に来る時、五百はまた長尾一族のために、本《もと》の小家《こいえ》を新しい邸に徙《うつ》して、そこへ一族を棲《すま》わせた。年月《ねんげつ》は詳《つまびらか》にせぬが、長尾氏の二女の人に嫁したのは、亀沢町に来てからの事である。初め長女敬が母と共に坐食するに忍びぬといって、媒《なかだち》するもののあるに任せて、猿若町《さるわかちょう》三丁目|守田座附《もりたざつき》の茶屋|三河屋力蔵《みかわやりきぞう》に嫁し、次で次女|銓《せん》も浅草|須賀町《すがちょう》の呉服商|桝屋儀兵衛《ますやぎへえ》に嫁した。未亡人は筆算が出来るので、敬の夫力蔵に重宝《ちょうほう》がられて、茶屋の帳場にすわることになった。
抽斎の蔵書は兼て三万五千部あるといわれていたが、この年亀沢町に徙《うつ》って検すると、既に一万部に満たなかった。矢島優善が台所町の土蔵から書籍を搬出するのを、当時まだ生きていた兄|恒善《つねよし》が見附けて、奪い還《かえ》したことがある。しかし人目に触れずに、どれだけ出して売ったかわからない。或時は二階から本を索《なわ》に繋《つな》いで卸すと、街上に友人が待ち受けていて持ち去ったそうである。安政三年以後、抽斎の時々《じじ》病臥《びょうが》することがあって、その間には書籍の散佚《さんいつ》することが殊《こと》に多かった。また人に貸して失った書も少くない。就中《なかんずく》森|枳園《きえん》とその子養真とに貸した書は多く還らなかった。成善《しげよし》が海保の塾に入《い》った後には、海保|竹逕《ちくけい》が数《しばしば》渋江氏に警告して、「大分|御《ご》蔵書印のある本が市中に見えるようでございますから、御注意なさいまし」といった。
抽斎の心に懸けて死んだ躋寿館校刻の『医心方』は、この年完成して、森枳園らは白銀若干を賞賜せられた。
抽斎に洋学の必要を悟らせた安積艮斎《あさかごんさい》は、この年十一月二十二日に七十一歳で歿した。艮斎の歿した時の
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