ている。銓はまだ泣いている。妻《さい》の出た跡で、更に酒を呼んだ宗右衛門は、気味の悪い笑顔《えがお》をして五百を迎える。五百は徐《しずか》に詫言《わびごと》を言う。主人はなかなか聴《き》かない。暫《しばら》く語を交えている間に、主人は次第に饒舌《じょうぜつ》になって、光※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]万丈《こうえんばんじょう》当るべからざるに至った。宗右衛門は好んで故事を引く。偽書《ぎしょ》『孔叢子《こうそうし》』の孔氏三世妻を出《いだ》したという説が出る。祭仲《さいちゅう》の女《むすめ》雍姫《ようき》が出る。斎藤太郎左衛門《さいとうたろうざえもん》の女《むすめ》が出る。五百はこれを聞きつつ思案した。これは負けていては際限がない。例《ためし》を引いて論ずることなら、こっちにも言分《いいぶん》がないことはない。そこで五百も論陣を張って、旗鼓《きこ》相当《あいあた》った。公父《こうふ》文伯《ぶんはく》の母|季敬姜《きけいきょう》を引く。顔之推《がんしすい》の母を引く。終《つい》に「大雅思斉《たいがしせい》」の章の「刑干寡妻《かさいをただし》、至干兄弟《けいていにいたり》、以御干家邦《もってかほうをぎょす》」を引いて、宗右衛門が※[#「廱−まだれ」、第4水準2−91−84]々《ようよう》の和を破るのを責め、声色《せいしょく》共に※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》しかった。宗右衛門は屈服して、「なぜあなたは男に生れなかったのです」といった。
長尾の家に争が起るごとに、五百が来なくてはならぬということになるには、こういう来歴があったのである。
その六十七
抽斎の歿した翌年安政六年には、十一月二十八日に矢島|優善《やすよし》が浜町中屋敷詰の奥通《おくどおり》にせられた。表医者の名を以て信順《のぶゆき》の側《かたわら》に侍することになったのである。今なお信頼しがたい優善が、責任ある職に就《つ》いたのは、五百のために心労を増す種であった。
抽斎の姉|須磨《すま》の生んだ長女|延《のぶ》の亡くなったのは、多分この年の事であっただろう。允成《ただしげ》の実父稲垣清蔵の養子が大矢清兵衛《おおやせいべえ》で、清兵衛の子が飯田良清《いいだよしきよ》で、良清の女《むすめ》がこの延である。容貌《ようぼう》の美しい女で、小舟町《こぶねちょう》の鰹節問屋《かつおぶしどいや》新井屋半七《あらいやはんしち》というものに嫁していた。良清の長男|直之助《なおのすけ》は早世して、跡には養子|孫三郎《まござぶろう》と、延の妹|路《みち》とが残った。孫三郎の事は後に見えている。
抽斎歿後の第二年は万延《まんえん》元年である。成善《しげよし》はまだ四歳であったが、夙《はや》くも浜町中屋敷の津軽|信順《のぶゆき》に近習として仕えることになった。勿論《もちろん》時々機嫌を伺いに出るに止《とど》まっていたであろう。この時新に中小姓になって中屋敷に勤める矢川文一郎《やがわぶんいちろう》というものがあって、穉《おさな》い成善の世話をしてくれた。
矢川には本末《ほんばつ》両家がある。本家は長足流《ちょうそくりゅう》の馬術を伝えていて、世文内《よよぶんない》と称した。先代文内の嫡男|与四郎《よしろう》は、当時|順承《ゆきつぐ》の側用人になって、父の称を襲《つ》いでいた。妻|児玉《こだま》氏は越前国|敦賀《つるが》の城主|酒井《さかい》右京亮《うきょうのすけ》忠※[#「田+比」、第3水準1−86−44]《ただやす》の家来某の女《むすめ》であった。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があって、彼を宗兵衛《そうべえ》といい、此《これ》を岡野《おかの》といった。宗兵衛は分家して、近習小姓倉田|小十郎《こじゅうろう》の女《むすめ》みつを娶《めと》った。岡野は順承附の中臈《ちゅうろう》になった。実は妾《しょう》である。
文一郎はこの宗兵衛の長子である。その母の姉妹には林有的《はやしゆうてき》の妻、佐竹永海《さたけえいかい》の妻などがある。佐竹は初め山内氏五百を娶らんとして成らず、遂に矢川氏を納《い》れた。某《それ》の年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に立っていた五百の手を※[#「てへん+參」、198−15]《と》ろうとすると、五百はその手を強く引いて放した。佐竹は庭の池に墜《お》ちた。山内では佐竹に栄次郎の衣服を著《き》せて帰した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往って、佐竹と邂逅《かいこう》した。そして佐竹の数人の芸妓《げいぎ》に囲まれているのを見て、「佐竹さん、相変らず英雄|色《いろ》を好むとやらですね」といった。佐竹は頭を掻《か》いて苦笑したそうである。
文一郎の父は早く世を去って、母みつは再嫁した。そこ
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