、専六、翠暫《すいざん》、嗣子|成善《しげよし》と矢島氏を冒した優善《やすよし》とが遺っていた。十月|朔《さく》に才《わずか》に二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をして、一家《いっか》の生計を立てて行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百であった。
遺子六人の中で差当り問題になっていたのは、矢島優善の身の上である。優善は不行跡《ふぎょうせき》のために、二年|前《ぜん》に表医者から小普請医者に貶《へん》せられ、一年|前《ぜん》に表医者|介《すけ》に復し、父を喪う年の二月に纔《わずか》に故《もと》の表医者に復することが出来たのである。
しかし当時の優善の態度には、まだ真に改悛《かいしゅん》したものとは看做《みな》しにくい所があった。そこで五百《いお》は旦暮《たんぼ》周密にその挙動を監視しなくてはならなかった。
残る五人の子の中《うち》で、十二歳の陸、六歳の水木、五歳の専六はもう読書、習字を始めていた。陸や水木には、五百が自ら句読《くとう》を授け、手跡《しゅせき》は手を把《と》って書かせた。専六は近隣の杉四郎《すぎしろう》という学究の許《もと》へ通っていたが、これも五百が復習させることに骨を折った。また専六の手本は平井東堂が書いたが、これも五百が臨書だけは手を把って書かせた。午餐後《ごさんご》日の暮れかかるまでは、五百は子供の背後《うしろ》に立って手習《てならい》の世話をしたのである。
その六十六
邸内に棲《すま》わせてある長尾の一家《いっけ》にも、折々多少の風波《ふうは》が起る。そうすると必ず五百《いお》が調停に往《ゆ》かなくてはならなかった。その争《あらそい》は五百が商業を再興させようとして勧めるのに、安《やす》が躊躇《ちゅうちょ》して決せないために起るのである。宗右衛門《そうえもん》の長女|敬《けい》はもう二十一歳になっていて、生得《しょうとく》やや勝気なので、母をして五百の言《こと》に従わしめようとする。母はこれを拒みはせぬが、さればとて実行の方へは、一歩も踏み出そうとはしない。ここに争は生ずるのであった。
さてこれが鎮撫《ちんぶ》に当るものが五百でなくてはならぬのは、長尾の家でまだ宗右衛門が生きていた時からの習慣である。五百の言《こと》には宗右衛門が服していたので、その妻や子もこれに抗することをば敢《あえ》てせぬのである。
宗右衛門が妻《さい》の妹の五百を、啻《ただ》抽斎の配偶として尊敬するのみでなく、かくまでに信任したには、別に来歴がある。それは或時宗右衛門が家庭のチランとして大いに安を虐待して、五百の厳《きびし》い忠告を受け、涙を流して罪を謝したことがあって、それから後《のち》は五百の前に項《うなじ》を屈したのである。
宗右衛門は性質|亮直《りょうちょく》に過ぐるともいうべき人であったが、癇癪持《かんしゃくもち》であった。今から十二年|前《ぜん》の事である。宗右衛門はまだ七歳の銓《せん》に読書を授け、この子が大きくなったなら士《さむらい》の女房《にょうぼう》にするといっていた。銓は記性《きせい》があって、書を善く読んだ。こういう時に、宗右衛門が酒気を帯びていると、銓を側に引き附けて置いて、忍耐を教えるといって、戯《たわむれ》のように煙管《キセル》で頭を打つことがある。銓は初め忍んで黙っているが、後《のち》には「お父《と》っさん、厭《いや》だ」といって、手を挙げて打つ真似《まね》をする。宗右衛門は怒《いか》って「親に手向《てむかい》をするか」といいつつ、銓を拳《こぶし》で乱打する。或日こういう場合に、安が停《と》めようとすると、宗右衛門はこれをも髪を攫《つか》んで拉《ひ》き倒して乱打し、「出て往《ゆ》け」と叫んだ。
安は本《もと》宗右衛門の恋女房である。天保五年三月に、当時阿部家に仕えて金吾《きんご》と呼ばれていた、まだ二十歳の安が、宿に下《さが》って堺町《さかいちょう》の中村座へ芝居を看《み》に往った。この時宗右衛門は安を見初《みそ》めて、芝居がはねてから追尾《ついび》して行って、紺屋町の日野屋に入るのを見極めた。同窓の山内栄次郎の家である。さては栄次郎の妹であったかというので、直ちに人を遣《や》って縁談を申し込んだのである。
こうしたわけで貰《もら》われた安も、拳の下《もと》に崩れた丸髷《まるまげ》を整える遑《いとま》もなく、山内へ逃げ帰る。栄次郎の忠兵衛は広瀬を名告《なの》る前の頃で、会津屋《あいづや》へ調停に往くことを面倒がる。妻はおいらん浜照《はまてる》がなれの果で何の用にも立たない。そこで偶《たまたま》渋江の家から来合せていた五百に、「どうかして遣ってくれ」という。五百は姉を宥《なだ》め賺《すか》して、横山町へ連れて往った。
会津屋に往って見れば、敬はうろうろ立ち廻っ
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