名は、お玉が池の家が柳原《やなぎはら》に近かったから命じたのであろう。
抽斎は晩年に最も雷《かみなり》を嫌った。これは二度まで落雷に遭《あ》ったからであろう。一度は新《あらた》に娶《めと》った五百と道を行く時の事であった。陰《くも》った日の空が二人《ふたり》の頭上において裂け、そこから一道《いちどう》の火が地上に降《くだ》ったと思うと、忽《たちま》ち耳を貫く音がして、二人は地に僵《たお》れた。一度は躋寿館《せいじゅかん》の講師の詰所《つめしょ》に休んでいる時の事であった。詰所に近い厠《かわや》の前の庭へ落雷した。この時厠に立って小便をしていた伊沢柏軒は、前へ倒れて、門歯二枚を朝顔《あさがお》に打ち附けて折った。此《かく》の如くに反覆して雷火に脅《おびや》されたので、抽斎は雷声を悪《にく》むに至ったのであろう。雷が鳴り出すと、蚊※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]《かや》の中《うち》に坐して酒を呼ぶことにしていたそうである。
抽斎のこの弱点は偶《たまたま》森枳園がこれを同じうしていた。枳園の寿蔵碑の後《のち》に門人|青山《あおやま》道醇《どうじゅん》らの書した文に、「夏月畏雷震《かげつらいしんをおそれ》、発声之前必先知之《はっせいのまえかならずさきにこれをしる》」といってある。枳園には今一つ厭《いや》なものがあった。それは蛞蝓《なめくじ》であった。夜《よる》行くのに、道に蛞蝓がいると、闇中《あんちゅう》においてこれを知った。門人の随《したが》い行くものが、燈火《ともしび》を以て照し見て驚くことがあったそうである。これも同じ文に見えている。
その六十五
抽斎は平姓《へいせい》で、小字《おさなな》を恒吉《つねきち》といった。人と成った後《のち》の名は全善《かねよし》、字《あざな》は道純《どうじゅん》、また子良《しりょう》である。そして道純を以て通称とした。その号抽斎の抽字は、本《もと》※[#「竹かんむり/(てへん+(澑−さんずい))」、192−1]《ちゅう》に作った。※[#「竹かんむり/(てへん+(澑−さんずい))」、192−1]、※[#「てへん+(澑−さんずい)」、192−1]《ちゅう》、抽の三字は皆相通ずるのである。抽斎の手沢本《しゅたくぼん》には※[#「竹かんむり/(てへん+(澑−さんずい))」、192−2]斎校正の篆印《てんいん》が殆《ほとん》ど必ず捺《お》してある。
別号には観柳書屋、柳原《りゅうげん》書屋、三亦堂《さんえきどう》、目耕肘《もくこうちゅう》書斎、今未是翁《こんみぜおう》、不求甚解《ふきゅうじんかい》翁等がある。その三世|劇神仙《げきしんせん》と称したことは、既にいったとおりである。
抽斎はかつて自ら法諡《ほうし》を撰んだ。容安院《ようあんいん》不求甚解居士《ふきゅうじんかいこじ》というのである。この字面《じめん》は妙ならずとはいいがたいが、余りに抽象的である。これに反して抽斎が妻|五百《いお》のために撰んだ法諡は妙|極《きわ》まっている。半千院《はんせんいん》出藍終葛大姉《しゅつらんしゅうかつだいし》というのである。半千は五百、出藍は紺屋町《こんやちょう》に生れたこと、終葛は葛飾郡《かつしかごおり》で死ぬることである。しかし世事《せいじ》の転変は逆覩《げきと》すべからざるもので、五百は本所《ほんじょ》で死ぬることを得なかった。
この二つの法諡はいずれも石に彫《え》られなかった。抽斎の墓には海保漁村の文を刻した碑が立てられ、また五百の遺骸は抽斎の墓穴《ぼけつ》に合葬せられたからである。
大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を景仰《けいこう》するものは、その苗裔《びょうえい》がどうなったかということを問わずにはいられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯を記《しる》し畢《おわ》ったが、なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これより下《しも》に書き附けて置こうと思う。
わたくしはこの記事を作るに許多《あまた》の障礙《しょうがい》のあることを自覚する。それは現存の人に言い及ぼすことが漸《ようや》く多くなるに従って、忌諱《きき》すべき事に撞着《とうちゃく》することもまた漸く頻《しきり》なることを免れぬからである。この障礙は上《かみ》に抽斎の経歴を叙して、その安政中の末路に近づいた時、早く既に頭《こうべ》を擡《もたげ》げて来た。これから後《のち》は、これが弥《いよいよ》筆端に纏繞《てんじょう》して、厭《いと》うべき拘束を加えようとするであろう。しかしわたくしはよしや多少の困難があるにしても、書かんと欲する事だけは書いて、この稿を完《まっと》うするつもりである。
渋江の家には抽斎の歿後に、既にいうように、未亡人五百、陸《くが》、水木《みき》
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