号を襲《つ》いだというを以て、想見することが出来る。父|允成《ただしげ》がしばしば戯場《ぎじょう》に出入《しゅつにゅう》したそうであるから、殆ど遺伝といっても好《よ》かろう。然るに嘉永二年に将軍に謁見した時、要路の人が抽斎に忠告した。それは目見《めみえ》以上の身分になったからは、今より後《のち》市中の湯屋に往《ゆ》くことと、芝居小屋に立ち入ることとは遠慮するが宜《よろ》しいというのであった。渋江の家には浴室の設《もうけ》があったから、湯屋に往くことは禁ぜられても差支《さしつかえ》がなかった。しかし観劇を停《とど》められるのは、抽斎の苦痛とする所であった。抽斎は隠忍して姑《しばら》く忠告に従っていた。安政二年の地震の日に観劇したのは、足掛七年ぶりであったということである。
 抽斎は森枳園と同じく、七代目市川団十郎を贔屓《ひいき》にしていた。家に伝わった俳名|三升《さんしょう》、白猿《はくえん》の外に、夜雨庵《やうあん》、二九亭、寿海老人と号した人で、葺屋町《ふきやちょう》の芝居茶屋|丸屋《まるや》三右衛門《さんえもん》の子、五世団十郎の孫である。抽斎より長ずること十四年であったが、抽斎に一年遅れて、安政六年三月二十三日に六十九歳で歿した。
 次に贔屓にしたのは五代目|沢村宗十郎《さわむらそうじゅうろう》である。源平《げんべえ》、源之助、訥升《とつしょう》、宗十郎、長十郎、高助《たかすけ》、高賀《こうが》と改称した人で、享和二年に生れ、嘉永六年十一月十五日に五十二歳で歿した。抽斎より長ずること三年であった。四世宗十郎の子、脱疽《だっそ》のために脚を截《き》った三世|田之助《たのすけ》の父である。

   その六十四

 劇を好む抽斎はまた照葉狂言《てりはきょうげん》をも好んだそうである。わたくしは照葉狂言というものを知らぬので、青々園《せいせいえん》伊原《いはら》さんに問いに遣った。伊原さんは喜多川季荘《きたがわきそう》の『近世風俗志』に、この演戯の起原沿革の載せてあることを報じてくれた。
 照葉狂言は嘉永の頃大阪の蕩子《とうし》四、五人が創意したものである。大抵能楽の間《あい》の狂言を模し、衣裳《いしょう》は素襖《すおう》、上下《かみしも》、熨斗目《のしめ》を用い、科白《かはく》には歌舞伎《かぶき》狂言、俄《にわか》、踊等の状《さま》をも交え取った。安政中江戸に行われて、寄場《よせば》はこれがために雑沓《ざっとう》した。照葉とは天爾波《てには》俄《にわか》の訛略《かりゃく》だというのである。
 伊原さんはこの照葉の語原は覚束《おぼつか》ないといっているが、いかにも輒《すなわ》ち信じがたいようである。
 能楽は抽斎の楽《たのし》み看《み》る所で、少《わか》い頃謡曲を学んだこともある。偶《たまたま》弘前の人村井|宗興《そうこう》と相逢うことがあると、抽斎は共に一曲を温習した。技の妙が人の意表に出たそうである。
 俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。
 抽斎は鑑賞家として古画を翫《もてあそ》んだが、多く買い集むることをばしなかった。谷文晁《たにぶんちょう》の教《おしえ》を受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山水をも画《えが》いた。
「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の聚珍家《しゅうちんか》として蒐集《しゅうしゅう》した所である。わたくしが初め「古武鑑」に媒介せられて抽斎を識《し》ったことは、前にいったとおりである。
 抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが少《まれ》であった。これは自ら※[#「にんべん+敬」、第3水準1−14−42]《いまし》めて耽《ふけ》らざらんことを欲したのである。
 抽斎は大名の行列を観《み》ることを喜んだ。そして家々の鹵簿《ろぼ》を記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自ら娯《たのし》んだのも、これがためである。この嗜好《しこう》は喜多|静廬《せいろ》の祭礼を看ることを喜んだのと頗《すこぶ》る相類《あいるい》している。
 角兵衛獅子《かくべえじし》が門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言った。
 庭園は抽斎の愛する所で、自ら剪刀《はさみ》を把《と》って植木の苅込《かりこみ》をした。木の中では御柳《ぎょりゅう》を好んだ。即ち『爾雅《じが》』に載せてある※[#「木+聖」、第3水準1−86−19]《てい》である。雨師《うし》、三春柳《さんしゅんりゅう》などともいう。これは早く父允成の愛していた木で、抽斎は居を移すにも、遺愛の御柳だけは常におる室《しつ》に近い地に栽《う》え替えさせた。おる所を観柳書屋《かんりゅうしょおく》と名づけた柳字も、楊柳《ようりゅう》ではない、※[#「木+聖」、第3水準1−86−19]柳である。これに反して柳原《りゅうげん》書屋の
前へ 次へ
全112ページ中62ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング