た人で、常に摂生に心を用いた。飯は朝午《あさひる》各《おのおの》三椀《さんわん》、夕二椀半と極《き》めていた。しかもその椀の大きさとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあった。殊に晩年になっては、嘉永二年に津軽|信順《のぶゆき》が抽斎のこの習慣を聞き知って、長尾宗右衛門に命じて造らせて賜わった椀のみを用いた。その形は常の椀よりやや大きかった。そしてこれに飯を盛るに、婢《ひ》をして盛らしむるときは、過不及《かふきゅう》を免れぬといって、飯を小さい櫃《ひつ》に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしていた。朝の未醤汁《みそしる》も必ず二椀に限っていた。
菜蔬《さいそ》は最も莱※[#「くさかんむり/服」、第4水準2−86−29]《だいこん》を好んだ。生で食うときは大根《だいこ》おろしにし、烹《に》て食うときはふろふきにした。大根おろしは汁を棄てず、醤油《しょうゆ》などを掛けなかった。
浜名納豆《はまななっとう》は絶やさずに蓄えて置いて食べた。
魚類《ぎょるい》では方頭魚《あまだい》の未醤漬《みそづけ》を嗜《たしな》んだ。畳鰯《たたみいわし》も喜んで食べた。鰻《うなぎ》は時々食べた。
間食は殆《ほとん》ど全く禁じていた。しかし稀《まれ》に飴《あめ》と上等の煎餅《せんべい》とを食べることがあった。
抽斎が少壮時代に毫《ごう》も酒を飲まなかったのに、天保八年に三十三歳で弘前に往ってから、防寒のために飲みはじめたことは、前にいったとおりである。さて一時は晩酌の量がやや多かった。その後《のち》安政元年に五十歳になってから、猪口《ちょく》に三つを踰《こ》えぬことにした。猪口は山内忠兵衛の贈った品で、宴に赴くにはそれを懐《ふところ》にして家を出た。
抽斎は決して冷酒《れいしゅ》を飲まなかった。然《しか》るに安政二年に地震に逢《あ》って、ふと冷酒を飲んだ。その後《ご》は偶《たまたま》飲むことがあったが、これも三杯の量を過さなかった。
その六十三
鰻を嗜《たし》んだ抽斎は、酒を飲むようになってから、しばしば鰻酒ということをした。茶碗に鰻の蒲焼《かばやき》を入れ、些《すこ》しのたれを注ぎ、熱酒《ねつしゅ》を湛《たた》えて蓋《ふた》を覆《おお》って置き、少選《しばらく》してから飲むのである。抽斎は五百《いお》を娶《めと》ってから、五百が少しの酒に堪えるので、勧めてこれを飲ませた。五百はこれを旨《うま》がって、兄栄次郎と妹壻長尾宗右衛門とに侑《すす》め、また比良野|貞固《さだかた》に飲ませた。これらの人々は後に皆鰻酒を飲むことになった。
飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問えば、読書といわなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、ここに算せない。医書中で『素問《そもん》』を愛して、身辺を離さなかったこともまた同じである。次は『説文《せつもん》』である。晩年には毎月《まいげつ》説文会を催して、小島成斎、森|枳園《きえん》、平井東堂、海保|竹逕《ちくけい》、喜多村栲窓《きたむらこうそう》、栗本|鋤雲《じょうん》等を集《つど》えた。竹逕は名を元起《げんき》、通称を弁之助《べんのすけ》といった。本《もと》稲村《いなむら》氏で漁村の門人となり、後に養われて子となったのである。文政七年の生《うまれ》で、抽斎の歿した時、三十五歳になっていた。栲窓は名を直寛《ちょくかん》、字《あざな》を士栗《しりつ》という。通称は安斎《あんさい》、後《のち》父の称|安政《あんせい》を襲《つ》いだ。香城《こうじょう》はその晩年の号である。経《けい》を安積艮斎《あさかごんさい》に受け、医を躋寿館《せいじゅかん》に学び、父|槐園《かいえん》の後《のち》を承《う》けて幕府の医官となり、天保十二年には三十八歳で躋寿館の教諭になっていた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は哲三《てつぞう》、栗本氏に養わるるに及んで、瀬兵衛《せへえ》と改め、また瑞見《ずいけん》といった。嘉永三年に二十九歳で奥医師になっていた。
説文会には島田|篁村《こうそん》も時々列席した。篁村は武蔵国|大崎《おおさき》の名主《なぬし》島田|重規《ちょうき》の子である。名は重礼《ちょうれい》、字は敬甫《けいほ》、通称は源六郎《げんろくろう》といった。艮斎、漁村の二家に従学していた。天保九年生であるから、嘉永、安政の交《こう》にはなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。
抽斎の好んで読んだ小説は、赤本《あかほん》、菎蒻本《こんにゃくぼん》、黄表紙《きびょうし》の類《るい》であった。想《おも》うにその自ら作った『呂后千夫《りょこうせんふ》』は黄表紙の体《たい》に倣《なら》ったものであっただろう。
抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の
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