じて席を遁《のが》れたそうである。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、匕首《ひしゅ》一口《いっこう》だけは身を放さずに持っていたので、湯殿《ゆどの》に脱ぎ棄てた衣類の傍《そば》から、それを取り上げることは出来たが、衣類を身に纏《まと》う遑《いとま》はなかったのである。
翌朝《よくちょう》五百は金を貴人の許《もと》に持って往った。手島の言《こと》によれば、これは献金としては受けられぬ、唯|借上《かりあげ》になるのであるから、十カ年賦で返済するということであった。しかし手島が渋江氏を訪《と》うて、お手元《てもと》不如意《ふにょい》のために、今年《こんねん》は返金せられぬということが数度あって、維新の年に至るまでに、還された金は些《すこし》ばかりであった。保さんが金を受け取りに往ったこともあるそうである。
この一条は保さんもこれを語ることを躊躇《ちゅうちょ》し、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の誠心《まごころ》をも、五百の勇気をも、かくまで明《あきらか》に見ることの出来る事実を湮滅《いんめつ》せしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き御方《おんかた》である。あからさまにその人を斥《さ》さずに、ほぼその事を記《しる》すのは、あるいは妨《さまたげ》がなかろうか。わたくしはこう思惟《しゆい》して、抽斎の勤王を説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。
抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋|嫌《ぎらい》で、攘夷に耳を傾《かたぶ》けかねぬ人であったが、前にいったとおりに、安積艮斎《あさかごんさい》の書を読んで悟る所があった。そして窃《ひそか》に漢訳の博物窮理の書を閲《けみ》し、ますます洋学の廃すべからざることを知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を贏《か》ち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そして彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『一夕《いっせき》医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は敢《あえ》て言《げん》をその間に挟《さしはさ》まなかったが、心中これがために憂え悶《もだ》えたことは、想像するに難からぬのである。
その六十二
わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月|初《はじめ》の事で、抽斎は翌八月の末《すえ》に歿した。
これより先幕府は安政三年二月に、蕃書調所《ばんしょしらべしょ》を九段《くだん》坂下《さかした》元小姓組|番頭格《ばんがしらかく》竹本|主水正《もんどのしょう》正懋《せいぼう》の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校を兼《かね》たようなもので、医術の事には関せなかった。越えて安政五年に至って、七月三日に松平|薩摩守《さつまのかみ》斉彬《なりあきら》家来|戸塚静海《とつかせいかい》、松平肥前守|斉正《なりまさ》家来|伊東玄朴《いとうげんぼく》、松平三河守|慶倫《よしとも》家来|遠田澄庵《とおだちょうあん》、松平駿河守|勝道《かつつね》家来青木|春岱《しゅんたい》に奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した権輿《けんよ》で、抽斎の歿した八月二十八日に先《さきだ》つこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府は御《おん》医師即ち官医中有志のものは「阿蘭《オランダ》医術兼学|致《いたし》候とも不苦《くるしからず》候」と令した。翌日また有馬|左兵衛佐《さひょうえのすけ》道純《みちずみ》家来|竹内玄同《たけうちげんどう》、徳川|賢吉《けんきち》家来伊東|貫斎《かんさい》が奥医師を命ぜられた。この二人《ににん》もまた蘭法医である。
抽斎がもし生きながらえていて、幕府の聘《へい》を受けることを肯《がえん》じたら、これらの蘭法医と肩を比《くら》べて仕えなくてはならなかったであろう。そうなったら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を齎《もたら》し来《きた》った蘭法医との間に、厭《いと》うべき葛藤《かっとう》を生ずることを免れなかったかも知れぬが、あるいはまた彼《か》の多紀|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》の手に出《い》でたという無名氏の『漢蘭酒話』、平野革谿《ひらのかくけい》の『一夕医話』等と趣を殊《こと》にした、真面目《しんめんぼく》な漢蘭医法比較研究の端緒が此《ここ》に開かれたかも知れない。
抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今|遺《のこ》れるを拾って二、三の事を挙げようと思う。抽斎は病を以て防ぎ得べきものとし
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