後森|枳園《きえん》が刊行した。抽斎は啻《ただ》に家庭において王室を尊崇《そんそう》する心を養成せられたのみでなく、また迷庵の説を聞いて感奮したらしい。
 抽斎の王室における、常に耿々《こうこう》の心を懐《いだ》いていた。そしてかつて一たびこれがために身命を危《あやう》くしたことがある。保さんはこれを母五百に聞いたが、憾《うら》むらくはその月日を詳にしない。しかし本所においての出来事で、多分安政三年の頃であったらしいということである。
 或日|手島良助《てじまりょうすけ》というものが抽斎に一の秘事を語った。それは江戸にある某|貴人《きにん》の窮迫の事であった。貴人は八百両の金がないために、まさに苦境に陥らんとしておられる。手島はこれを調達せんと欲して奔走しているが、これを獲《う》る道がないというのであった。抽斎はこれを聞いて慨然として献金を思い立った。抽斎は自家の窮乏を口実として、八百両を先取《さきどり》することの出来る無尽講《むじんこう》を催した。そして親戚故旧を会して金を醵出《きょしゅつ》せしめた。
 無尽講の夜《よる》、客が已《すで》に散じた後《のち》、五百は沐浴《もくよく》していた。明朝《みょうちょう》金を貴人の許《もと》に齎《もたら》さんがためである。この金を上《たてまつ》る日は予《あらかじ》め手島をして貴人に稟《もう》さしめて置いたのである。
 抽斎は忽《たちま》ち剥啄《はくたく》の声を聞いた。仲間《ちゅうげん》が誰何《すいか》すると、某貴人の使《つかい》だといった。抽斎は引見した。来たのは三人の侍《さぶらい》である。内密に旨《むね》を伝えたいから、人払《ひとばらい》をしてもらいたいという。抽斎は三人を奥の四畳半に延《ひ》いた。三人の言う所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようとして、この使を発したということである。
 抽斎は応ぜなかった。この秘事に与《あずか》っている手島は、貴人の許《もと》にあって職を奉じている。金は手島を介して上《たてまつ》ることを約してある。面《おもて》を識《し》らざる三人に交付することは出来ぬというのである。三人は手島の来ぬ事故《じこ》を語った。抽斎は信ぜないといった。
 三人は互《たがい》に目語《もくご》して身を起し、刀の※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《つか》に手を掛けて抽斎を囲んだ。そしていった。我らの言《こと》を信ぜぬというは無礼である。かつ重要の御使《おんつかい》を承わってこれを果さずに還《かえ》っては面目《めんぼく》が立たない。主人はどうしても金をわたさぬか。すぐに返事をせよといった。
 抽斎は坐したままで暫《しばら》く口を噤《つぐ》んでいた。三人が偽《いつわり》の使だということは既に明《あきらか》である。しかしこれと格闘することは、自分の欲せざる所で、また能《あた》わざる所である。家には若党がおり諸生がおる。抽斎はこれを呼ぼうか、呼ぶまいかと思って、三人の気色《けしき》を覗《うかが》っていた。
 この時廊下に足音がせずに、障子《しょうじ》がすうっと開《あ》いた。主客は斉《ひとし》く愕《おどろ》き※[#「目+台」、第3水準1−88−79]《み》た。

   その六十一

 刀の※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《つか》に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端《はし》近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜《ななめ》に見遣《みや》った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
 五百は僅《わずか》に腰巻《こしまき》一つ身に著《つ》けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜《くわ》えていた。そして閾際《しきいぎわ》に身を屈《かが》めて、縁側に置いた小桶《こおけ》二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気《ゆげ》が立ち升《のぼ》っている。縁側《えんがわ》を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
 五百は小桶を持ったまま、つと一間《ひとま》に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把《と》って鞘《さや》を払った。そして床《とこ》の間《ま》を背にして立った一人の客を睨《にら》んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
 熱湯を浴びた二人《ふたり》が先に、※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《つか》に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
 五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろぼう/\」という声をその間に挟んだ。しかし家に居合せた男らの馳《は》せ集るまでには、三人の客は皆逃げてしまった。この時の事は後々《のちのち》まで渋江の家の一つ話になっていたが、五百は人のその功を称するごとに、慙《は》
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