で文一郎は津軽家に縁故のある浅草|常福寺《じょうふくじ》にあずけられた。これは嘉永四年の事で、天保十二年|生《うまれ》の文一郎は十一歳になっていた。
 文一郎は寺で人と成って、渋江家で抽斎の亡くなった頃、本家の文内の許《もと》に引き取られた。そして成善が近習小姓を仰付けられる少し前に、二十歳で信順の中小姓になったのである。
 文一郎は頗《すこぶ》る姿貌《しぼう》があって、心|自《みずか》らこれを恃《たの》んでいた。当時|吉原《よしわら》の狎妓《こうぎ》の許に足繁《あししげ》く通って、遂に夫婦の誓《ちかい》をした。或夜文一郎はふと醒《さ》めて、傍《かたわら》に臥《ふ》している女を見ると、一眼《いちがん》を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]開《みひら》いて眠っている。常に美しいとばかり思っていた面貌の異様に変じたのに驚いて、肌《はだ》に粟《あわ》を生じたが、忽《たちまち》また魘夢《えんむ》に脅《おびやか》されているのではないかと疑って、急に身を起した。女が醒めてどうしたのかと問うた。文一郎が答はいまだ半《なかば》ならざるに、女は満臉《まんけん》に紅《こう》を潮《ちょう》して、偏盲《へんもう》のために義眼を装っていることを告げた。そして涙を流しつつ、旧盟を破らずにいてくれと頼んだ。文一郎は陽にこれを諾して帰って、それきりこの女と絶ったそうである。

   その六十八

 わたくしは少時の文一郎を伝うるに、辞《ことば》を費すことやや多きに至った。これは単に文一郎が穉《おさな》い成善《しげよし》を扶掖《ふえき》したからではない。文一郎と渋江氏との関係は、後に漸《ようや》く緊密になったからである。文一郎は成善の姉壻になったからである。文一郎さんは赤坂台町《あかさかだいまち》に現存している人ではあるが、恐《おそら》くは自ら往事を談ずることを喜ばぬであろう。その少時の事蹟には二つの活《い》きた典拠がある。一つは矢川文内の二女お鶴《つる》さんの話で、一つは保さんの話である。文内には三子二女があった。長男|俊平《しゅんぺい》は宗家を嗣《つ》いで、その子|蕃平《しげへい》さんが今浅草|向柳原町《むこうやなぎはらちょう》に住しているそうである。俊平の弟は鈕平《ちゅうへい》、録平《ろくへい》である。女子は長を鉞《えつ》といい、次《つぎ》を鑑《かん》という。鑑は後に名を鶴と更《あらた》めた。中村勇左衛門即ち今弘前|桶屋町《おけやまち》にいる範一《はんいち》さんの妻で、その子の範《すすむ》さんとわたくしとは書信の交通をしているのである。
 成善はこの年十月|朔《ついたち》に海保漁村と小島成斎との門に入《い》った。海保の塾は下谷《したや》練塀小路《したやねりべいこうじ》にあった。いわゆる伝経廬《でんけいろ》である。下谷は卑※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、201−2]《ひしつ》の地なるにもかかわらず、庭には梧桐《ごとう》が栽《う》えてあった。これは漁村がその師|大田錦城《おおたきんじょう》の風《ふう》を慕って栽えさせたのである。当時漁村は六十二歳で、躋寿館《せいじゅかん》の講師となっていた。また陸奥国《むつのくに》八戸《はちのへ》の城主|南部《なんぶ》遠江守《とうとうみのかみ》信順《のぶゆき》と越前国|鯖江《さばえ》の城主|間部《まなべ》下総守|詮勝《あきかつ》とから五人扶持ずつの俸を受けていた。しかし躋寿館においても、家塾においても、大抵養子|竹逕《ちくけい》が代講をしていたのである。
 小島成斎は藩主阿部|正寧《まさやす》の世には、辰《たつ》の口《くち》の老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした賢之助《けんのすけ》正教《まさのり》の世になってから、昌平橋|内《うち》の上屋敷にいた。今の神田|淡路町《あわじちょう》である。手習に来る児童の数は頗《すこぶ》る多く、二階の三室に机を並べて習うのであった。成善が相識の兄弟子には、嘉永二年|生《うまれ》で十二歳になる伊沢鉄三郎《いさわてつさぶろう》がいた。柏軒の子で、後に徳安《とくあん》と称し、維新後に磐《いわお》と更《あらた》めた人である。成斎は手に鞭《むち》を執って、正面に坐していて、筆法を誤ると、鞭の尖《さき》で指《ゆびさ》し示した。そして児童を倦《う》ましめざらんがためであろうか、諧謔《かいぎゃく》を交えた話をした。その相手は多く鉄三郎であった。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小島へ往くにも若党に連れられて行った。鉄三郎にも若党が附いて来たが、これは父が奥詰《おくづめ》医師になっているので、従者らしく附いて来たのである。
 抽斎の墓碑が立てられたのもこの年である。海保漁村の墓誌はその文が頗る長かったのを、豊碑《ほうひ》を築き起して世に傲《おご》るが如き状《じょう》をなすは、主家に
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