外ないと信じたのである。固《もと》よりこれは捷径《しょうけい》ではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために一人《いちにん》の生涯を費《ついや》すかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者は此《ここ》に従事せずにはいられぬのである。
然らば学者は考証中に没頭して、修養に遑《いとま》がなくなりはせぬか。いや。そうではない。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途を歩みつつ、不断の修養をなすことが出来る。
抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないで好《い》いものはない。十三|経《ぎょう》といい、九経といい、六経という。列《なら》べ方はどうでも好いが、秦火《しんか》に焚《や》かれた楽経《がくけい》は除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。「聖人の道と事々《ことごと》しく云《い》へども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中にも過猶不及《すぎたるはなおおよばざるがごとし》を身行《しんこう》の要とし、無為不言《ぶいふげん》を心術の掟《おきて》となす。此二書をさへ能《よ》く守ればすむ事なり」というのである。
抽斎は百尺竿頭《ひゃくせきかんとう》更に一歩を進めてこういっている。「但《ただし》論語の内には取捨すべき所あり。王充《おうじゅう》書《しょ》の問孔篇《もんこうへん》及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべし」といっている。王充のいわゆる「夫聖賢下筆造文《それせいけんのふでをくだしぶんをつくるや》、用意詳審《いをもちいてくわしくつまびらかにするも》、尚未可謂尽得実《なおいまだことごとくはじつをうというべからず》、況倉卒吐言《いわんやそうそつのとげん》、安能皆是《いずくんぞよくみなぜならんや》」という見識である。
抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天は蒼々《そうそう》として上《かみ》にあり。人は両間《りょうかん》に生れて性皆相近し。習《ならい》相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れず。老子は自然と説く。其《そ》れ是《これ》歟《か》。孔子|曰《いわく》。述而不作《のべてつくらず》。信而好古《しんじていにしえをこのむ》。窃比我於老彭《ひそかにわれをろうほうにひす》。かく宣給《のたも》ふときは、孔子の意も亦《また》自然に相近し」といったのが即ちこれである。
その五十八
抽斎は『老子』を尊崇《そんそう》せんがために、先ずこれをヂスクレヂイに陥《おとし》いれた仙術を、道教の畛域《しんいき》外に逐《お》うことを謀《はか》った。これは早く清《しん》の方維甸《ほういでん》が嘉慶板《かけいばん》の『抱朴子《ほうぼくし》』に序して弁じた所である。さてこの洗冤《せんえん》を行《おこな》った後《のち》にこういっている。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり。不患人不己知《ひとのおのれをしらざるをうれえず》及|曾子《そうし》の有若無《あれどもなきがごとく》実若虚《じつなれどもきょなるがごとし》などと云《い》へる、皆老子の意に近し。且《かつ》自然と云ふこと、万事にわたりて然らざることを得ず。(中略)又|仏家《ぶっか》に漠然《まくねん》に帰すると云ふことあり。是《こ》れ空《くう》に体する大乗の教《おしえ》なり。自然と云ふより一層あとなき言《こと》なり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道も孝悌《こうてい》仁義《じんぎ》より初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その一以貫之《いつもってこれをつらぬく》は此教を一にして執中《しっちゅう》に至り初て仏家大乗の一場《いちじょう》に至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」といっている。
抽斎は終《つい》に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もしこの人が旧新約書を読んだなら、あるいはその中《うち》にも契合点《けいごうてん》を見出だして、彼《か》の安井息軒《やすいそっけん》の『弁妄《べんもう》』などと全く趣を殊《こと》にした書を著《あらわ》したかも知れない。
以上は抽斎の手記した文について、その心術|身行《しんこう》の由《よ》って来《きた》る所を求めたものである。この外、わたくしの手元には一種の語録がある。これは五百《いお》が抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、頃日《このごろ》保さんがわたくしのために筆に上《のぼ》せたのである。わたくしは今|漫《みだり》に潤削を施すことなしに、これを此
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