《ここ》に収めようと思う。
 抽斎は日常宋儒のいわゆる虞廷《ぐてい》の十六字を口にしていた。彼《か》の「人心惟危《じんしんこれあやうく》、道心惟微《どうしんこれびなり》、惟精惟一《これせいこれいつ》、允執厥中《まことにそのちゆをとる》」の文である。上《かみ》の三教帰一の教は即ちこれである。抽斎は古文尚書の伝来を信じた人ではないから、これを以て堯の舜に告げた言《こと》となしたのでないことは勿論である。そのこれを尊重したのは、古言《こげん》古義として尊重したのであろう。そして惟精惟一《これせいこれいつ》の解釈は王陽明《おうようめい》に従うべきだといっていたそうである。
 抽斎は『礼《れい》』の「清明在躬《せいめいみにあれば》、志気如神《しきしんのごとし》」の句と、『素問《そもん》』の上古天真論《じょうこてんしんろん》の「恬※[#「りっしんべん+炎」、第3水準1−84−52]虚無《てんたんとしてきょむならば》、真気従之《しんきこれにしたがう》、精神内守《せいしんうちにまもれば》、病安従来《やまいいずくんぞしたがいきたらん》」の句とを誦《しょう》して、修養して心身の康寧《こうねい》を致すことが出来るものと信じていた。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を知らない。腹痛は幼い時にあったが、壮年に及んでからは絶《たえ》てなかった。しかし虎列拉《コレラ》の如き細菌の伝染をば奈何《いかん》ともすることを得なかった。
 抽斎は自ら戒め人を戒むるに、しばしば沢山咸《たくざんかん》の「九四爻《きゅうしこう》」を引いていった。学者は仔細《しさい》に「憧憧往来《しょうしょうとしておうらいすれば》、朋従爾思《ともはなんじのおもいにしたがう》」という文を味《あじわ》うべきである。即ち「君子素其位而行《くんしはそのくらいにそしておこない》、不願乎其外《そのほかをねがわず》」の義である。人はその地位に安んじていなくてはならない。父|允成《ただしげ》がおる所の室《しつ》を容安室《ようあんしつ》と名づけたのは、これがためである。医にして儒を羨《うらや》み、商にして士を羨むのは惑えるものである。「天下何思何慮《てんかなにをかおもいなにをかおもんぱからん》、天下同帰而殊塗《てんかきをおなじくしてみちをことにし》、一致而百慮《ちをいつにしてりょをひゃくにす》」といい、「日往則月来《ひゆけばすなわちつききたり》、月往則日来《つきゆかばすなわちひきたり》、日月相推而明生焉《じつげつあいおしてひかりうまる》、寒往則暑来《かんゆけばすなわちしょきたり》、暑往則寒来《しょゆけばすなわちかんきたり》、寒暑相推而歳成焉《かんしょあいおしてとしなる》」というが如く、人の運命にもまた自然の消長がある。須《すべから》く自重して時の到《いた》るを待つべきである。
「尺蠖之屈《せきかくのくっするは》、以求信也《もってのびんことをもとむるなり》、龍蛇之蟄《りょうだのかくるるは》、以存身也《もってみをながらえるなり》」とはこれの謂《いい》であるといった。五百の兄広瀬栄次郎が已《すで》に町人を罷《や》めて金座《きんざ》の役人となり、その後《のち》久しく金《かね》の吹替《ふきかえ》がないのを見て、また業を更《あらた》めようとした時も、抽斎はこの爻《こう》を引いて諭《さと》した。

   その五十九

 抽斎はしばしば地雷復《ちらいふく》の初九爻《しょきゅうこう》を引いて人を諭した。「不遠復无祗悔《とおからずしてかえるくいにいたることなし》」の爻である。過《あやまち》を知って能《よ》く改むる義で、顔淵《がんえん》の亜聖たる所以《ゆえん》は此《ここ》に存するというのである。抽斎はいつもその跡で言い足した。しかし顔淵の好処《こうしょ》は啻《ただ》にこれのみではない。「回之為人也《かいのひととなりや》、択乎中庸《ちゅうようをえらび》、得一善《いちぜんをうれば》、則拳拳服膺《すなわちけんけんふくようして》、而弗失之矣《これをうしなわず》」というのがこれである。孔子が子貢《しこう》にいった語に、顔淵を賞して、「吾与汝《われとなんじと》、弗如也《しかざるなり》」といったのも、これがためであるといった。
 抽斎はかつていった。「為政以徳《まつりごとをなすにとくをもってすれば》、譬如北辰《たとえばほくしんの》、居其所《そのところにいて》、而衆星共之《しゅうせいのこれにむかうがごとし》」というのは、独《ひとり》君道を然《しか》りとなすのみではない。人は皆|奈何《いかに》したら衆星が己《おのれ》に共《むか》うだろうかと工夫しなくてはならない。能《よ》くこれを致すものは即ち「※[#「挈」の「手」に代えて「糸」、第3水準1−90−4]矩之道《けっくのみち》」である。韓退之《かんたいし》は「其責己也重以周《そのおのれをせむるやおもくしても
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