『直舎《ちょくしゃ》伝記抄』及《および》已《すで》に散佚《さんいつ》した諸書を除く外は、皆|保《たもつ》さんが蔵している。
抽斎の著述は概《おおむ》ね是《かく》の如きに過ぎない。致仕した後《のち》に、力を述作に肆《ほしいまま》にしようと期していたのに、不幸にして疫癘《えきれい》のために命《めい》を隕《おと》し、かつて内に蓄うる所のものが、遂に外《ほか》に顕《あらわ》るるに及ばずして已《や》んだのである。
わたくしは此《ここ》に抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から観《み》れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って渾侖《こんろん》に承認すべきものではない。是《ここ》において考証家の末輩《まつばい》には、破壊を以て校勘の目的となし、毫《ごう》もピエテエの迹《あと》を存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、固《もと》より人文《じんぶん》進化の道を蔽塞《へいそく》すべき陋見《ろうけん》であるが、考証学者中に往々修養のない人物を出《い》だしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。
しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の全《まった》からんことを欲するには、考証を闕《か》くことは出来ぬと信じている。何故《なにゆえ》というに、修養には六経《りくけい》を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に須《ま》つことがあるというのである。
抽斎はその『※[#「衞/心」、169−9]語《えいご》』中にこういっている。「凡《およ》そ学問の道は、六経《りくけい》を治め聖人《せいじん》の道を身に行ふを主とする事は勿論《もちろん》なり。扨《さて》其《その》六経を読み明《あきら》めむとするには必ず其|一言《いちげん》一句をも審《つまびらか》に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字《もんじ》の音義を詳《つまびらか》にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、先《ま》づ善本を多く求めて、異同を比讐《ひしゅう》し、謬誤《びゅうご》を校正し、其字句を定めて後《のち》に、小学に熟練して、義理始て明了なることを得《う》。譬《たと》へば高きに登るに、卑《ひく》きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕《さいさい》の末業《まつぎょう》に似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むること能《あた》はず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき大業《たいぎょう》に似たれども、其内|主《しゅ》とする所の書を専《もっぱ》ら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人に随《したが》ひて教《おしえ》を受くべき所なり。さて斯《かく》の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし」といっている。
これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に縁《よ》って修養して好《い》いか分からぬことになるというのである。さて抽斎の此《かく》の如き見解は、全く師市野迷庵の教《おしえ》に本づいている。
その五十七
迷庵の考証学が奈何《いか》なるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういった。「孔子《こうし》は堯舜《ぎょうしゅん》三代の道を述べて、其《その》流義を立て給《たま》へり。堯舜より以下を取れるは、其事の明《あきらか》に伝はれる所なればなり。されども春秋の比《ころ》にいたりて、世変り時|遷《うつ》りて、其道一向に用ゐられず。孔子も遣《や》つては見給へども、遂に行かず。終《つい》に魯《ろ》に還《かえ》り、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修むるものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字を精出《せいだ》して覚ゆるがよし。次に九経《きゅうけい》をよく読むべし。漢儒の注解はみな古《いにしえ》より伝受あり。自分の臆説《おくせつ》をまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時|程頤《ていい》、朱熹《しゅき》等《ら》己《おの》が学を建てしより、近来|伊藤源佐《いとうげんさ》、荻生惣右衛門《おぎゅうそうえもん》などと云《い》ふやから、みな己《おのれ》の学を学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな真闇《まっくら》になりてわからず。余も亦《また》少《わか》かりしより此《この》事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解する所あり。学令の旨《むね》にしたがひて、それ/″\の古書をよむがよしと思へり」といった。
要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に由《よ》って至るより
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