が記述に与《あずか》ったことは既にいえるが如くである。抽斎の考証学の一面はこの二書が代表している。徐承祖《じょしょうそ》が『訪古志』に序して、「大抵論繕写刊刻之工《たいていはぜんしゃかんこくのこうをろんじ》、拙於考証《こうしょうにつたなく》、不甚留意《はなはだしくはりゅういせず》」といっているのは、我国において初《はじめ》て手を校讐《こうしゅう》の事に下《くだ》した抽斎らに対して、備わるを求むることの太《はなは》だ過ぎたるものではなかろうか。
 我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、吉田篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]《よしだこうとん》が首唱し、狩谷|※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《えきさい》がこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだものである。そして篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]の傍系には多紀桂山があり、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の傍系には市野迷庵、多紀|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、伊沢蘭軒、小島宝素《こじまほうそ》があり、抽斎と枳園との傍系には多紀暁湖、伊沢柏軒、小島|抱沖《ほうちゅう》、堀川舟庵と漁村自己とがあるというのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、和泉橋通《いずみばしどおり》に住していた。名は尚質《しょうしつ》、一|字《じ》は学古《がくこ》である。抱沖はその子|春沂《しゅんき》で、百俵|寄合《よりあい》医師から出て父の職を襲《つ》ぎ、家は初め下谷《したや》二長町《にちょうまち》、後|日本橋《にほんばし》榑正町《くれまさちょう》にあった。名は尚真《しょうしん》である。春沂の後《のち》は春澳《しゅんいく》、名は尚絅《しょうけい》が嗣《つ》いだ。春澳の子は現に北海道|室蘭《むろらん》にいる杲一《こういち》さんである。陸実《くがみのる》が新聞『日本』に抽斎の略伝を載せた時、誤って宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまで誰《たれ》もこれを匡《ただ》さずにいる。またこの学統について、長井金風《ながいきんぷう》さんは篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]の前に井上蘭台《いのうえらんだい》と井上|金峨《きんが》とを加えなくてはならぬといっている。要するにこれらの諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽斎が枳園と共に、まさに纔《わずか》に全著を成就するに至ったのである。
 わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そして頃日《けいじつ》国書刊行会が『訪古志』を『解題叢書』中に収めて縮刷し、その伝を弘むるに至ったのを喜ぶのである。

   その五十五

 抽斎の医学上の著述には、『素問識小《そもんしきしょう》』、『素問校異』、『霊枢《れいすう》講義』がある。就中《なかんずく》『素問』は抽斎の精を殫《つく》して研窮した所である。海保漁村撰の墓誌に、抽斎が『説文《せつもん》』を引いて『素問』の陰陽結斜は結糾《けつきゅう》の訛《か》なりと説いたことが載せてある。また七損八益を説くに、『玉房秘訣《ぎょくぼうひけつ》』を引いて説いたことが載せてある。『霊枢』の如きも「不精則不正当人言亦人人異《せいならざればすなわちせいとうたらずじんげんまたじんじんことなる》」の文中、抽斎が正当を連文《れんぶん》となしたのを賞してある。抽斎の説には発明|極《きわめ》て多く、此《かく》の如き類はその一斑《いっぱん》に過ぎない。
 抽斎遺す所の手沢本《しゅたくぼん》には、往々欄外書のあるものを見る。此の如き本には『老子』がある。『難経《なんけい》』がある。
 抽斎の詩はその余事に過ぎぬが、なお『抽斎吟稿』一巻が存している。以上は漢文である。
『護痘要法』は抽斎か池田|京水《けいすい》の説を筆受《ひつじゅ》したもので、抽斎の著述中江戸時代に刊行せられた唯一の書である。
 雑著には『晏子《あんし》春秋筆録』、『劇神仙話』、『高尾考《たかおこう》』がある。『劇神仙話』は長島五郎作の言《こと》を録したものである。『高尾考』は惜《おし》むらくは完書をなしていない。
『※[#「衞/心」、165−14]語《えいご》』は抽斎が国文を以て学問の法程を記《き》して、及門《きゅうもん》の子弟に示す小冊子に命じた名であろう。この文の末尾に「天保|辛卯《しんぼう》季秋《きしゅう》抽斎|酔睡《すいすい》中に※[#「衞/心」、165−15]言《えいげん》す」と書してある。辛卯は天保二年で、抽斎が二十七歳の時である。しかし現存している一巻には、この国文八枚が紅色《こうしょく》の半紙に写してあって、その前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚
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