、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。遺骸《いがい》は谷中《やなか》感応寺に葬られた。
抽斎の歿した跡には、四十三歳の未亡人《びぼうじん》五百を始として、岡西氏の出《しゅつ》次男矢島|優善《やすよし》二十四歳、四女|陸《くが》十二歳、六女|水木《みき》六歳、五男|専六《せんろく》五歳、六男|翠暫《すいざん》四歳、七男|成善《しげよし》二歳の四子二女が残った。優善を除く外は皆山内氏五百の出《しゅつ》である。
抽斎の子にして父に先《さきだ》って死んだものは、尾島氏の出《しゅつ》長男|恒善《つねよし》、比良野氏の出馬場|玄玖《げんきゅう》妻長女|純《いと》、岡西氏の出二女|好《よし》、三男八三郎、山内氏の出三女山内|棠《とう》、四男幻香、五女|癸巳《きし》、七女|幸《さき》の三子五女である。
矢島優善はこの年二月二十八日に津軽家の表医者にせられた。初《はじめ》の地位に復したのである。
五百の姉壻長尾宗右衛門は、抽斎に先《さきだ》つこと一月《いちげつ》、七月二十日に同じ病を得て歿した。次で十一月十五日の火災に、横山町の店も本町の宅も皆焼けたので、塗物問屋《ぬりものどいや》の業はここに廃絶した。跡に遣《のこ》ったのは未亡人安四十四歳、長女|敬《けい》二十一歳、次女|銓《せん》十九歳の三人である。五百は台所町の邸《やしき》の空地《くうち》に小さい家を建ててこれを迎え入れた。五百は敬に壻を取って長尾氏の祀《まつり》を奉ぜしめようとして、安に説き勧めたが、安は猶予して決することが出来なかった。
比良野|貞固《さだかた》は抽斎の歿した直後から、連《しきり》に五百に説いて、渋江氏の家を挙げて比良野邸に寄寓せしめようとした。貞固はこういった。自分は一年|前《ぜん》に抽斎と藩政上の意見を異にして、一時絶交の姿になっていた。しかし抽斎との情誼《じょうぎ》を忘るることなく、早晩|疇昔《ちゅうせき》の親《したし》みを回復しようと思っているうちに、図らずも抽斎に死なれた。自分はどうにかして旧恩に報いなくてはならない。自分の邸宅には空室《くうしつ》が多い。どうぞそこへ移って来て、我家《わがいえ》に住む如くに住んでもらいたい。自分は貧《まずし》いが、日々《にちにち》の生計には余裕がある。決して衣食の価《あたい》は申し受けない。そうすれば渋江|一家《いっけ》は寡婦孤児として受くべき侮《あなどり》を防ぎ、無用の費《ついえ》を節し、安んじて子女の成長するのを待つことが出来ようといったのである。
その五十四
比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎えようとして、五百に説いた。しかしそれは五百を識《し》らぬのであった。五百は人の廡下《ぶ》に倚《よ》ることを甘んずる女ではなかった。渋江一家の生計は縮小しなくてはならぬこと勿論《もちろん》である。夫の存命していた時のように、多くの奴婢《ぬひ》を使い、食客《しょっかく》を居《お》くことは出来ない。しかし譜代の若党や老婦にして放ち遣るに忍びざるものもある。寄食者の中《うち》には去らしめようにも往《ゆ》いて投ずべき家のないものもある。長尾氏の遺族の如きも、もし独立せしめようとしたら、定めて心細く思うことであろう。五百は己《おのれ》が人に倚《よ》らんよりは、人をして己に倚らしめなくてはならなかった。そして内に恃《たの》む所があって、敢《あえ》て自らこの衝《しょう》に当ろうとした。貞固の勧誘の功を奏せなかった所以《ゆえん》である。
森|枳園《きえん》はこの年十二月五日に徳川|家茂《いえもち》に謁した。寿蔵碑には「安政五年|戊午《ぼご》十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この年月日《ねんげつじつ》は家定が薨《こう》じてから四月《しげつ》の後《のち》である。その枳園自撰の文なるを思えば、頗《すこぶ》る怪《あやし》むべきである。枳園が謁したはずの家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であった。
この年の虎列拉《コレラ》は江戸市中において二万八千人の犠牲を求めたのだそうである。当時の聞人《ぶんじん》でこれに死したものには、岩瀬京山《いわせけいざん》、安藤広重《あんどうひろしげ》、抱一《ほういつ》門の鈴木必庵《すずきひつあん》等がある。市河米庵《いちかわべいあん》も八十歳の高齢ではあったが、同じ病であったかも知れない。渋江氏とその姻戚《いんせき》とは抽斎、宗右衛門の二人《ににん》を喪《うしな》って、五百、安の姉妹が同時に未亡人となったのである。
抽斎の著《あらわ》す所の書には、先ず『経籍訪古志』と『留真譜《りゅうしんふ》』とがあって、相踵《あいつ》いで支那人の手に由《よ》って刊行せられた。これは抽斎とその師、その友との講窮し得たる果実で、森枳園
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