ぱん》であった。しかし当時法印の位は太《はなは》だ貴《とうと》いもので、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭が渋江の家に来ると、茶は台のあり蓋《ふた》のある茶碗に注《つ》ぎ、菓子は高坏《たかつき》に盛って出した。この器《うつわ》は大名と多紀法印とに茶菓《ちゃか》を呈する時に限って用いたそうである。※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭の後《のち》は安琢《あんたく》が嗣《つ》いだ。
暁湖、名は元※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]、字は兆寿《ちょうじゅ》、通称は安良《あんりょう》であった。桂山の孫、柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]《りゅうはん》の子である。文化三年に生れ、文政十年六月三日に父を喪《うしな》って、八月四日に宗家を継承した。暁湖の後《のち》を襲《つ》いだのは養子|元佶《げんきつ》で、実は季《すえ》の弟である。
安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男|成善《しげよし》が藩主津軽|順承《ゆきつぐ》に謁した。年|甫《はじめ》て二歳、今の齢《よわい》を算する法に従えば、生れて七カ月であるから、人に懐《いだ》かれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められていたので、この日だけは八歳と披露したのだそうである。
五月十七日には七女|幸《さき》が生れた。幸は越えて七月六日に早世した。
この年には七月から九月に至るまで虎列拉《コレラ》が流行した。徳川家定は八月二日に、「少々|御勝不被遊《おんすぐれあそばされず》」ということであったが、八日には忽《たちま》ち薨去《こうきょ》の公報が発せられ、家斉《いえなり》の孫紀伊宰相|慶福《よしとみ》が十三歳で嗣立《しりつ》した。家定の病は虎列拉であったそうである。
この頃抽斎は五百《いお》にこういう話をした。「己《おれ》は公儀へ召されることになるそうだ。それが近い事で公方様《くぼうさま》の喪が済み次第|仰付《おおせつ》けられるだろうということだ。しかしそれをお請《うけ》をするには、どうしても津軽家の方を辞せんではいられない。己は元禄以来重恩の主家《しゅうけ》を棄《す》てて栄達を謀《はか》る気にはなられぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申立てる。そうすると、津軽家の方で勤めていることも出来ない。己は隠居することに極《き》めた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなったから、己も兼《かね》て五十九歳になったら隠居しようと思っていた。それがただ少しばかり早くなったのだ。もし父と同じように、七十四歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ二十年ほどの月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず『老子《ろうし》』の註を始《はじめ》として、迷庵|※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《えきさい》に誓った為事《しごと》を果して、それから自分の為事に掛かるのだ」といった。公儀へ召されるといったのは、奥医師などに召し出されることで、抽斎はその内命を受けていたのであろう。然るに運命は抽斎をしてこのヂレンマの前に立たしむるに至らなかった。また抽斎をして力を述作に肆《ほしいまま》にせしむるに至らなかった。
その五十三
八月二十二日に抽斎は常の如く晩餐《ばんさん》の饌《ぜん》に向った。しかし五百が酒を侑《すす》めた時、抽斎は下物《げぶつ》の魚膾《さしみ》に箸《はし》を下《くだ》さなかった。「なぜ上《あが》らないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この日に始て嘔吐《おうど》があった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。
多紀|安琢《あんたく》、同《おなじく》元佶《げんきつ》、伊沢柏軒、山田|椿庭《ちんてい》らが病牀《びょうしょう》に侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名は業広《ぎょうこう》、通称は昌栄《しょうえい》である。抽斎の父|允成《ただしげ》の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国《こうずけのくに》高崎の城主松平|右京亮《うきょうのすけ》輝聡《てるとし》の家来で、本郷|弓町《ゆみちょう》に住んでいた。
抽斎は時々《じじ》譫語《せんご》した。これを聞くに、夢寐《むび》の間《あいだ》に『医心方』を校合《きょうごう》しているものの如くであった。
抽斎の病況は二十八日に小康を得た。遺言《ゆいごん》の中《うち》に、兼て嗣子と定めてあった成善《しげよし》を教育する方法があった。経書《けいしょ》を海保漁村に、筆札《ひっさつ》を小島成斎に、『素問《そもん》』を多紀安琢に受けしめ、機を看《み》て蘭語《らんご》を学ばしめるようにというのである。
二十八日の夜|丑《うし》の刻に
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