うからである。
 この年|前《さき》に貶黜《へんちつ》せられた抽斎の次男矢島|優善《やすよし》は、纔《わずか》に表医者《おもていしゃ》介《すけ》を命ぜられて、半《なかば》その位地を回復した。優善の友塩田|良三《りょうさん》は安積艮斎《あさかごんさい》の塾に入れられていたが、或日師の金百両を懐《ふところ》にして長崎に奔《はし》った。父楊庵は金を安積氏に還《かえ》し、人を九州に遣《や》って子を連れ戻した。良三はまだ残《のこり》の金を持っていたので、迎えに来た男を随《したが》えて東上するのに、駅々で人に傲《おご》ること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守|斉護《なりもり》の四子|寛五郎《のぶごろう》は、津軽|順承《ゆきつぐ》の女壻《じょせい》にせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をして下情《かじょう》に通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。驕子《きょうし》良三は往々五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿を凌《しの》いで、旅中|下風《かふう》に立っている少年の誰《たれ》なるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時|裁《わずか》に十七歳であった。
 小野氏ではこの年|令図《れいと》が致仕して、子|富穀《ふこく》が家督した。令図は小字《おさなな》を慶次郎《けいじろう》という。抽斎の祖父|本皓《ほんこう》の庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国|川越《かわごえ》の人某の女《むすめ》である。令図は出《い》でて同藩の医官二百石|小野道秀《おのどうしゅう》の末期《まつご》養子となり、有尚《ゆうしょう》と称し、後《のち》また道瑛《どうえい》と称し、累進して近習医者に至った。天明三年十一月二十六日|生《うまれ》で、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、男《だん》を富穀《ふこく》といい、女《じょ》を秀《ひで》といった。
 富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年の生《うまれ》である。十一歳にして、森|枳園《きえん》と共に抽斎の弟子《ていし》となった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩|定府《じょうふ》中の富人《ふうじん》であった。妹秀は長谷川町《はせがわちょう》の外科医|鴨池道碩《かもいけどうせき》に嫁した。
 多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉の末家《ばつけ》の※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》が六十三歳で歿し、十一月に向《むこう》柳原《やなぎはら》の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭が既に逝《ゆ》いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭の子|安琢《あんたく》が多紀安琢二百俵、父|楽春院《らくしゅんいん》として載せてあり、暁湖は旧に依《よ》って多紀|安良《あんりょう》法眼《ほうげん》二百俵、父|安元《あんげん》として載せてある。※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その何《なん》の故なるを詳《つまびらか》にしない。

   その五十二

 ※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、名は元堅《げんけん》、字《あざな》は亦柔《えきじゅう》、一に三松《さんしょう》と号す。通称は安叔《あんしゅく》、後《のち》楽真院また楽春院という。寛政七年に桂山《けいざん》の次男に生れた。幼時犬を闘《たたか》わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に若《し》かずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。幾《いくばく》もなくして節を折って書を読み、精力|衆《しゅう》に踰《こ》え、識見|人《ひと》を驚かした。分家した初《はじめ》は本石町《ほんこくちょう》に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄《ちつろく》は宗家《そうか》と同じく二百俵三十人扶持である。
 ※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に薬餌《やくじ》を給するのみでなく、夏は蚊※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]《かや》を貽《おく》り、冬は布団《ふとん》を遣《おく》った。また三両から五両までの金を、貧窶《ひんる》の度に従って与えたこともある。
 ※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は抽斎の最も親しい友の一人《ひとり》で、二家《にか》の往来は頻繁《ひん
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