になっていた。抽斎は彼《か》の終始|濂渓《れんけい》の学を奉じていた艮斎とは深く交らなかったのに、これに良三を託したのは、良三の吏材《りさい》たるべきを知って、これを培養することを謀《はか》ったのであろう。
抽斎の先妻徳の里方《さとかた》岡西氏では、この年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。
栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれと交《まじわり》を訂し、遂にその妹徳を娶《めと》るに至ったのである。徳の亡くなった後《のち》も、次男優善がその出《しゅつ》であるので、抽斎|一家《いっけ》は岡西氏と常に往来していた。
栄玄は樸直《ぼくちょく》な人であったが、往々性癖のために言行の規矩《きく》を踰《こ》ゆるを見た。かつて八文の煮豆を買って鼠不入《ねずみいらず》の中に蔵し、しばしばその存否を検したことがある。また或日|海※[#「魚+連」、第4水準2−93−72]《ぶり》一尾を携え来って、抽斎に遺《おく》り、帰途に再び訪《と》わんことを約して去った。五百はために酒饌《しゅぜん》を設けようとして頗《すこぶ》る苦心した。それは栄玄が饌《ぜん》に対して奢侈《しゃし》を戒めたことが数次であったからである。抽斎は遺られた所の海※[#「魚+連」、第4水準2−93−72]を饗《きょう》することを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、色《いろ》悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな馳走《ちそう》をすることは、わたしの内《うち》ではない」といった。五百が「これはお持たせでございます」といったが、栄玄は聞えぬふりをしていた。調理法が好過《よす》ぎたのであろう。
尤《もっと》も抽斎をして不平に堪えざらしめたのは、栄玄が庶子|苫《とま》を遇することの甚だ薄かったことである。苫は栄玄が厨下《ちゅうか》の婢《ひ》に生せた女《むすめ》である。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」といって、板の間《ま》に蓙《ござ》を敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿していたから、これは河東《かとう》の獅子吼《ししく》を恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであった。抽斎は五百に議《はか》って苫を貰い受け、後|下総《しもうさ》の農家に嫁せしめた。
栄玄の子で、父に遅るること僅《わずか》に四月《しげつ》にして歿した玄亭は、名を徳瑛《とくえい》、字《あざな》を魯直《ろちょく》といった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。女《むすめ》は名を初《はつ》といった。
この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が平生《へいぜい》の学術上|研鑽《けんさん》の外に最も多く思《おもい》を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手《くにがって》の議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ち克《か》たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がその位《くらい》にあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを敢《あえ》てしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。憾《うら》むらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いて起《た》つことが出来なかった。また遂に勤王の旗幟《きし》を明《あきらか》にする時期の早きを致すことが出来なかった。
その五十一
安政四年には抽斎の七男|成善《しげよし》が七月二十六日を以て生れた。小字《おさなな》は三吉《さんきち》、通称は道陸《どうりく》である。即ち今の保《たもつ》さんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。
成善の生れた時、岡西玄庵が胞衣《えな》を乞いに来た。玄庵は父玄亭に似て夙慧《しゅくけい》であったが、嘉永三、四年の頃|癲癇《てんかん》を病んで、低能の人と化していた。天保六年の生《うまれ》であったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇の薬方《やくほう》として用いんがためであった。
抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで一夜《ひとよ》を泣き明したのは、昔抽斎の父|允成《ただしげ》の茶碗の余瀝《よれき》を舐《ねぶ》ったという老尼|妙了《みょうりょう》である。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、毎《つね》に小児《しょうに》の世話をしていたが、中にも抽斎の三女|棠《とう》を愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬとい
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