の多事の時に方《あた》って、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに掣肘《せいちゅう》を加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置に出《い》でしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党と在国党とに岐《わか》れて、荏苒《じんぜん》決せざることである。甚だしきに至っては、在府党は郷国の士を罵《ののし》って国猿《くにざる》といい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。此《かく》の如きは今の多事の時に処する所以《ゆえん》の道でないというのである。
 この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論が盛《さかん》に起った。しかし後にはこれに左袒《さたん》するものも多くなって、順承が聴納《ていのう》しようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いに怒《いか》った。信順は平素国猿を憎悪することの尤《もっと》も甚《はなはだ》しい一人《いちにん》であった。
 この議に反対したものは、独《ひとり》浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の殆《ほとん》ど全体は弘前に往《ゆ》くことを喜ばなかった。中にも抽斎と親善《しんぜん》であった比良野|貞固《さだかた》は、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、馳《は》せ来《きた》って論難した。議|善《よ》からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、悉《ことごと》く窮北の地に遷《うつ》そうとするは、忍べるの甚しきだというのである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎と交《まじわり》を絶つに至った。
 この頃|国勝手《くにがって》の議に同意していた人々の中《うち》、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあって、彼《かの》議を唱えた抽斎らは肩身の狭い念《おもい》をした。継嗣問題とは当主|順承《ゆきつぐ》が肥後国熊本の城主細川越中守|斉護《なりもの》の子|寛五郎《のぶごろう》承昭《つぐてる》を養おうとするに起った。順承は女《むすめ》玉姫《たまひめ》を愛して、これに壻を取って家を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所|大川端《おおかわばた》邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子に貰《もら》い受けようとするに至った。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、この養子を迎うることを拒もうとし、順承はこれを迎うるに決したからである。即ち側用人《そばようにん》加藤清兵衛、用人兼松|伴大夫《はんたゆう》は帰国の上《うえ》隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上|永《なが》の蟄居《ちっきょ》を命ぜられた。
 石居《せききょ》即ち兼松三郎は後に夢醒《むせい》と題して七古《しちこ》を作った。中《うち》に「又憶世子即世後《またおもうせいしそくせいののち》、継嗣未定物議伝《けいしいまださだまらずぶつぎつたう》、不顧身分有所建《みぶんをかえりみずけんずるところあり》、因冒譴責坐北遷《よりてけんせきをおかしてほくせんにざす》」の句がある。その咎《とがめ》を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「菅公遇譖《かんこうたまたまそしられ》、屈原独清《くつげんはひとりきよし》、」という語があった。
 この年抽斎の次男矢島|優善《やすよし》は、遂に素行修まらざるがために、表医者《おもていしゃ》を貶《へん》して小普請《こぶしん》医者とせられ、抽斎もまたこれに連繋《れんけい》して閉門|三日《さんじつ》に処せられた。

   その五十

 優善の夥伴《なかま》になっていた塩田|良三《りょうさん》は、父の勘当を蒙《こうむ》って、抽斎の家の食客《しょっかく》となった。我子の乱行《らんぎょう》のために譴《せめ》を受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは才を愛する情が深いからの事であったらしい。抽斎は人の寸長《すんちょう》をも見※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《みのが》さずに、これに保護《ほうご》を加えて、幾《ほとん》どその瑕疵《かし》を忘れたるが如くであった。年来森|枳園《きえん》を扶掖《ふえき》しているのもこれがためである。今良三を家に置くに至ったのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであろう。固《もと》より抽斎の許《もと》には、常に数人の諸生が養われていたのだから、良三はただこの群《むれ》に新《あらた》に来《きた》り加わったに過ぎない。
 数月《すうげつ》の後《のち》に、抽斎は良三を安積艮斎《あさかごんさい》の塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、二本松《にほんまつ》にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来|昌平黌《しょうへいこう》の教授
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