げ》の庭にある滝見茶屋《たきみぢゃや》に避難したが、本丸の破損が少かったので翌朝帰った。
幕府の設けた救小屋《すくいごや》は、幸橋《さいわいばし》外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。
この年抽斎は五十一歳、五百《いお》は四十歳になって、子供には陸《くが》、水木《みき》、専六、翠暫《すいざん》の四人がいた。矢島|優善《やすよし》の事は前に言った。五百の兄広瀬栄次郎がこの年四月十八日に病死して、その父の妾《しょう》牧は抽斎の許《もと》に寄寓《きぐう》した。
牧は寛政二年|生《うまれ》で、初《はじめ》五百の祖母が小間使《こまづかい》に雇った女である。それが享和三年に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になった。忠兵衛が文化七年に紙問屋《かみどいや》山一《やまいち》の女くみを娶《めと》った時、牧は二十一歳になっていた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみは富家《ふうか》の懐子《ふところご》で、性質が温和であった。後に五百と安とを生んでから、気象の勝った五百よりは、内気な安の方が、母の性質を承《う》け継いでいると人に言われたのに徴しても、くみがどんな女であったかと言うことは想い遣られる。牧は特に悍《かん》と称すべき女でもなかったらしいが、とにかく三つの年上であって、世故《せいこ》にさえ通じていたから、くみが啻《ただ》にこれを制することが難かったばかりでなく、動《やや》もすればこれに制せられようとしたのも、固《もと》より怪《あやし》むに足らない。
既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、次《つい》で文化十四年に次男某を生むに当って病に罹《かか》り、生れた子と倶《とも》に世を去った。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであったか、重聴《じゅうちょう》になった。その時牧がくみの事を度々《たびたび》聾者《つんぼ》と呼んだのを、六歳になった栄次郎が聞き咎《とが》めて、後《のち》までも忘れずにいた。
五百は六、七歳になってから、兄栄次郎にこの事を聞いて、ひどく憤《いきどお》った。そして兄にいった。「そうして見ると、わたしたちには親の敵《かたき》がありますね。いつか兄《に》いさんと一しょに敵《かたき》を討とうではありませんか」といった。その後《のち》五百は折々|箒《ほうき》に塵払《ちりはらい》を結び附けて、双手《そうしゅ》の如くにし、これに衣服を纏《まと》って壁に立て掛け、さてこれを斫《き》る勢《いきおい》をなして、「おのれ、母の敵《かたき》、思い知ったか」などと叫ぶことがあった。父忠兵衛も牧も、少女の意の斥《さ》す所を暁《さと》っていたが、父は憚《はばか》って肯《あえ》て制せず、牧は懾《おそ》れて咎めることが出来なかった。
牧は奈何《いか》にもして五百の感情を和《やわ》げようと思って、甘言を以てこれを誘《いざな》おうとしたが、五百は応ぜなかった。牧はまた忠兵衛に請うて、五百に己《おのれ》を母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知っていて、此《かく》の如き手段のかえってその反抗心を激成するに至らんことを恐れたのである。
五百が早く本丸に入《い》り、また藤堂家に投じて、始終家に遠《とおざ》かっているようになったのは、父の希望があり母の遺志があって出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧と倶《とも》に起臥《おきふし》することを快《こころよ》からず思って、余所《よそ》へ出て行くことを喜んだためもある。
こういう関係のある牧が、今|寄辺《よるべ》を失って、五百の前に首《こうべ》を屈し、渋江氏の世話を受けることになったのである。五百は怨《うらみ》に報ゆるに恩を以てして、牧の老《おい》を養うことを許した。
その四十九
安政三年になって、抽斎は再び藩の政事に喙《くちばし》を容《い》れた。抽斎の議の大要はこうである。弘前藩は須《すべから》く当主|順承《ゆきつぐ》と要路の有力者数人とを江戸に留《とど》め、隠居|信順《のぶゆき》以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。その理由の第一は、時勢既に変じて多人数《たにんず》の江戸|詰《づめ》はその必要を認めないからである。何故《なにゆえ》というに、原《もと》諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当って、旧慣を棄《す》て、冗費を節することを謀《はか》っている。諸侯に土木の手伝《てつだい》を命ずることを罷《や》め、府内を行くに家に窓蓋《まどぶた》を設《もうく》ることを止《とど》めたのを見ても、その意向を窺《うかが》うに足る。縦令《たとい》諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府は最早《もはや》これを抑留することはなかろう。理由の第二は、今
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