八年生で、十八歳になっていた。二人は影の形に従う如く、須臾《しゅゆ》も相離るることがなかった。
或時優善は松川飛蝶《まつかわひちょう》と名告《なの》って、寄席《よせ》に看板を懸けたことがある。良三は松川|酔蝶《すいちょう》と名告って、共に高座に登った。鳴物入《なりものいり》で俳優の身振《みぶり》声色《こわいろ》を使ったのである。しかも優善はいわゆる心打《しんうち》で、良三はその前席を勤めたそうである。また夏になると、二人は舟を藉《か》りて墨田川《すみだがわ》を上下《じょうか》して、影芝居《かげしばい》を興行した。一人は津軽家の医官矢島氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏の若檀那《わかだんな》である。中にも良三の父は神田|松枝町《まつえだちょう》に開業して、市人に頓才《とんさい》のある、見立《みたて》の上手な医者と称せられ、その肥胖《ひはん》のために瞽者《こしゃ》と看錯《みあやま》らるる面《おもて》をば汎《ひろ》く識《し》られて、家は富み栄えていた。それでいて二人共に、高座《こうざ》に顔を※[#「日+麗」、第4水準2−14−21]《さら》すことを憚《はばか》らなかったのである。
二人は酒量なきにかかわらず、町々の料理屋に出入《いでいり》し、またしばしば吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、親戚《しんせき》故旧をして償《つぐの》わしめ、度重《たびかさな》って償う道が塞《ふさ》がると、跡を晦《くら》ましてしまう。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、そういう失踪《しっそう》の間の事で、その早晩|還《かえ》り来《きた》るを候《うかが》ってこの中《うち》に投ぜようとしたのである。
十月二日は地震の日である。空は陰《くも》って雨が降ったり歇《や》んだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。周茂叔連《しゅうもしゅくれん》にも逐次に人の交迭《こうてつ》があって、豊芥子《ほうかいし》や抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震は亥《い》の刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動が漸《ようや》く勢《いきおい》を増した。寝間《ねま》にどてらを著《き》て臥《ふ》していた抽斎は、撥《は》ね起きて枕元《まくらもと》の両刀を把《と》った。そして表座敷へ出ようとした。
寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が堆《うずたか》く積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ墜《お》ちた。抽斎はその間に介《はさ》まって動くことが出来なくなった。
五百《いお》は起きて夫の後《うしろ》に続こうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
暫くして若党|仲間《ちゅうげん》が来て、夫妻を扶《たす》け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。
抽斎は衣服を取り繕う暇《ひま》もなく、馳《は》せて隠居|信順《のぶゆき》を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の第宅《ていたく》が破損したので、後に浜町《はまちょう》の中屋敷に移った。当主|順承《ゆきつぐ》は弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのである。
抽斎は留守居比良野|貞固《さだかた》に会って、救恤《きゅうじゅつ》の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、旨《むね》を承《う》くるに遑《いとま》あらず、直ちに廩米《りんまい》二万五千俵を発して、本所の窮民を賑《にぎわ》すことを令した。勘定奉行|平川半治《ひらかわはんじ》はこの議に与《あずか》らなかった。平川は後に藩士が悉《ことごと》く津軽に遷《うつ》るに及んで、独り永《なが》の暇《いとま》を願って、深川《ふかがわ》に米店《こめみせ》を開いた人である。
その四十八
抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると、住宅は悉く傾《かたぶ》き倒れていた。二階の座敷牢は粉韲《ふんせい》せられて迹《あと》だに留《とど》めなかった。対門《たいもん》の小姓組|番頭《ばんがしら》土屋《つちや》佐渡守|邦直《くになお》の屋敷は火を失していた。
地震はその夜《よ》歇《や》んでは起り、起っては歇《や》んだ。町筋ごとに損害の程度は相殊《あいことな》っていたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕《むきず》なものは少かった。上野の大仏は首が砕け、谷中《やなか》天王寺《てんのうじ》の塔は九輪《くりん》が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾《かたぶ》いた。数十カ所から起った火は、三日の朝辰の刻に至って始て消された。公《おおやけ》に届けられた変死者が四千三百人であった。
三日以後にも昼夜数度の震動があるので、第宅《ていたく》のあるものは庭に小屋掛《こやがけ》をして住み、市民にも露宿するものが多かった。将軍家定は二日の夜《よる》吹上《ふきあ
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