ていた抽斎も、ここに至って※[#「宀/浸」、第4水準2−8−7]《やや》風潮の化誘《かゆう》する所となった。それには当時|産蓐《さんじょく》にいた女丈夫《じょじょうふ》五百《いお》の啓沃《けいよく》も与《あずか》って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。
津軽|順承《ゆきつぐ》は一の進言に接した。これを上《たてまつ》ったものは用人《ようにん》加藤|清兵衛《せいべえ》、側用人《そばようにん》兼松伴大夫《かねまつはんたゆう》、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の能《よ》くこれを遵行《じゅんこう》するものは少い。概《おおむ》ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに遑《いとま》あらざるのである。宜《よろし》く現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれが貲《し》に充《み》てしめ、年賦に依って還納せしむべきである。かつ今より後毎年一度甲冑|改《あらため》を行い、手入《ていれ》を怠らしめざるようにせられたいというのである。順承はこれを可とした。
この進言が抽斎の意より出《い》で、兼松三郎がこれを承《う》けて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたということは、闔藩《こうはん》皆これを知っていた。三郎は石居《せききょ》と号した。その隆準《りゅうじゅん》なるを以ての故に、抽斎は天狗《てんぐ》と呼んでいた。佐藤一斎、古賀※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]庵《こがとうあん》の門人で、学殖|儕輩《せいはい》を超《こ》え、かつて昌平黌《しょうへいこう》の舎長となったこともある。当時弘前|吏胥《りしょ》中の識者として聞えていた。
抽斎は天下多事の日に際会して、言《こと》偶《たまたま》政事に及び、武備に及んだが、此《かく》の如きは固《もと》よりその本色《ほんしょく》ではなかった。抽斎の旦暮《たんぼ》力を用いる所は、古書を講窮し、古義を闡明《せんめい》するにあった。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクションである。此《これ》は学者たる抽斎が、終生従事していた不朽の労作である。
抽斎の校勘の業はこの頃着々|進陟《しんちょく》していたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』の跋《ばつ》に、緑汀会《りょくていかい》の事を記《しる》して、三十年前だといってある。緑汀とは多紀※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》が本所緑町の別荘である。※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は毎月《まいげつ》一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らを此《ここ》に集《つど》えた。諸子は環坐して古本《こほん》を披閲し、これが論定をなした。会の後《のち》には宴を開いた。さて二州橋上酔《にしゅうきょうじょうえい》に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、諸子※[#「「褒」の「保」に代えて「臼」」、第4水準2−88−19]録《ほうろく》惟《こ》れ勤め、各部|頓《とみ》に成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。
わたくしはこの年の地震の事を語るに先《さきだ》って、台所町の渋江の家に座敷牢《ざしきろう》があったということに説き及ぼすのを悲《かなし》む。これは二階の一室《いっしつ》を繞《めぐら》すに四目格子《よつめごうし》を以てしたもので、地震の日には工事既に竣《おわ》って、その中はなお空虚であった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者を出《いだ》さざることを得なかったであろう。
座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男|優善《やすよし》がために設けたものであった。
その四十七
抽斎が岡西氏|徳《とく》に生《うま》せた三人の子の中《うち》、ただ一人《ひとり》生き残った次男優善は、少時《しょうじ》放恣《ほうし》佚楽《いつらく》のために、頗《すこぶ》る渋江|一家《いっか》を困《くるし》めたものである。優善には塩田良三《しおだりょうさん》という遊蕩《ゆうとう》夥伴《なかま》があった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に杖《つえ》を立てて歩いたという楊庵《ようあん》が、家附《いえつき》の女《むすめ》に生せた嫡子である。
わたくしは前に優善が父兄と嗜《たしみ》を異にして、煙草を喫《の》んだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共に涓滴《けんてき》の量なくして、あらゆる遊戯に耽《ふけ》ったのである。
抽斎が座敷牢を造った時、天保六年|生《うまれ》の優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保
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