躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問うことを須《ま》たぬであろう。然るに別に一の善本があった。それは京都|加茂《かも》の医家岡本|由顕《ゆうけん》の家から出た『医心方』巻《けんの》二十二である。
正親町《おおぎまち》天皇の時、従《じゅ》五位|上《じょう》岡本|保晃《ほうこう》というものがあった。保晃は半井瑞策に『医心方』一巻を借りて写した。そして何故《なにゆえ》か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。
由顕の言う所はこうである。『医心方』は徳川家光《いえみつ》が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策の女《むすめ》が産後に病んで死に瀕《ひん》した。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、『医心方』一巻を贈ったというのである。
『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よもや帝室から賜った『医心方』三十巻の中《うち》から、一巻を割《さ》いて贈りはしなかっただろう。凡《おおよ》そこれらの事は、前人が皆かつてこれを論弁している。
既にして岡本氏の家衰えて、畑成文《はたせいぶん》に託してこの巻《まき》を沽《う》ろうとした。成文は錦小路《にしきこうじ》中務権少輔《なかつかさごんしょうゆう》頼易《よりおさ》に勧めて元本を買わしめ、副本はこれを己《おのれ》が家に留《とど》めた。錦小路は京都における丹波氏の裔《えい》である。
岡本氏の『医心方』一巻は、此《かく》の如くにして伝わっていた。そして校刻の時に至って対照の用に供せられたようである。
この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職に就《つ》いてから十カ月の後《のち》である。
抽斎の家族はこの年主人五十歳、五百《いお》三十九歳、陸《くが》八歳、水木《みき》二歳、専六生れて一歳の五人であった。矢島氏を冒した優善《やすよし》は二十歳になっていた。二年|前《ぜん》から寄寓《きぐう》していた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移った。
安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、徒《あだ》なる喜《よろこび》を誌《しる》さなくてはならなかった。それは三月十九日に、六男|翠暫《すいざん》が生れたことである。後十一歳にして夭札《ようさつ》した子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り撼《うごか》して起《た》たしめたものは、独《ひとり》地震のみではなかった。
学問はこれを身に体し、これを事に措《お》いて、始《はじめ》て用をなすものである。否《しからざ》るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽《けんさん》して造詣《ぞうけい》の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径《ただ》ちにこれを事に措こうとはしない。その※[#「石+乞」、第4水準2−82−28]々《こつこつ》として年《とし》を閲《けみ》する間には、心頭|姑《しばら》く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此《かく》の如くにして始て贏《か》ち得らるるものである。
この用無用を問わざる期間は、啻《ただ》に年《とし》を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累《かさ》ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然《せつぜん》として二をなしている。もし時務の要求が漸《ようや》く増長し来《きた》って、強いて学者の身に薄《せま》ったなら、学者がその学問生活を抛《なげう》って起《た》つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。
わたくしは安政二年に抽斎が喙《かい》を時事に容《い》るるに至ったのを見て、是《かく》の如き観をなすのである。
その四十六
米艦が浦賀《うらが》に入《い》ったのは、二年|前《ぜん》の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦《ふね》が再び浦賀に来て、六月に下田《しもだ》を去るまで、江戸の騒擾《そうじょう》は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑《かっちゅう》の準備を令した。動員の備《そなえ》のない軍隊の腑甲斐《ふがい》なさが覗《うかが》われる。新将軍|家定《いえさだ》の下《もと》にあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
今年《こんねん》に入《い》ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘《ぼんしょう》を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔《みことのり》が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れ
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