るに過ぎない。具平親王の書は本《もと》字類に属して、此《ここ》に算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、彼《か》の出雲広貞《いずもひろさだ》らの上《たてまつ》った『大同類聚方《だいどうるいじゅほう》』の如きは、散佚《さんいつ》して世に伝わらない。
それゆえ天元五年に成って、永観《えいかん》二年に上《たてまつ》られた『医心方』が、殆《ほとん》ど九百年の後の世に出《い》でたのを見て、学者が血を涌《わ》き立たせたのも怪《あやし》むに足らない。
『医心方』は禁闕《きんけつ》の秘本であった。それを正親町《おおぎまち》天皇が出《いだ》して典薬頭《てんやくのかみ》半井《なからい》通仙院《つうせんいん》瑞策《ずいさく》に賜わった。それからは世《よよ》半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政の初《はじめ》に、仁和寺《にんなじ》文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡が極《きわめ》て多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井|大和守成美《やまとのかみせいび》は献ずることを肯《がえん》ぜず、その子|修理大夫《しゅりのだいぶ》清雅《せいが》もまた献ぜず、遂《つい》に清雅の子出雲守|広明《ひろあき》に至った。
半井氏が初め何《なに》の辞《ことば》を以て命を拒んだかは、これを詳《つまびらか》にすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月|晦《みそか》に洛東団栗辻《らくとうどんぐりつじ》から起って、全都を灰燼《かいじん》に化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、似寄《により》の品でも好《よ》いから出せと誅求《ちゅうきゅう》した。恐《おそら》くは情を知って強要したのであろう。
半井広明はやむことをえず、こういう口上《こうじょう》を以て『医心方』を出した。外題《げだい》は同じであるが、筆者|区々《まちまち》になっていて、誤脱多く、甚《はなは》だ疑わしき※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]巻《そかん》である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から六郷《ろくごう》筑前守|政殷《まさただ》の手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は公用人《こうようにん》渡辺三太平《わたなべさんたへい》を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守|胤統《たねのり》を以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は金蔵《かねぐら》から渡されるであろう。書籍は篤《とく》と取調べ、かつ刻本|売下《うりさげ》代金を以て費用を返納すべき積年賦《せきねんぷ》をも取調べるようにということであった。
半井《なからい》広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巻《けんの》二十五に上下がある。細《こまか》に検するに期待に負《そむ》かぬ善本であった。素《もと》『医心方』は巣元方《そうげんぼう》の『病源候論《びょうげんこうろん》』を経《けい》とし、隋唐《ずいとう》の方書百余家を緯《い》として作ったもので、その引用する所にして、支那において佚亡《いつぼう》したものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁|二人《ににん》、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀|安良《あんりょう》法眼《ほうげん》である。楽真院は※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、安良は暁湖《ぎょうこ》で、並《ならび》に二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此《これ》は法眼になっていて、当時|矢《や》の倉《くら》の分家が向柳原《むこうやなぎはら》の宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
躋寿館では『医心方』影写程式《えいしゃていしき》というものが出来た。写生は毎朝辰刻《まいちょうたつのこく》に登館して、一人一日《いちにんいちじつ》三|頁《けつ》を影模する。三頁を模し畢《おわ》れば、任意に退出することを許す。三頁を模すること能《あた》わざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月|朔《さく》に起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは晦《みそか》に至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。
その四十五
半井《なからい》本の『医心方』を校刻するに当って、仁和寺本を写した
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