が許多《あまた》の女子《おなご》を役《えき》して、客に田楽《でんがく》豆腐などを供せしめた。パアル・アンチシパションに園遊会を催したのである。歳《とし》の初《はじめ》の発会式《ほっかいしき》も、他家に較《くら》ぶれば華やかであった。しほの母は素《もと》京都|諏訪《すわ》神社の禰宜《ねぎ》飯田氏の女《じょ》で、典薬頭《てんやくのかみ》某の家に仕えているうちに、その嗣子と私《わたくし》してしほを生んだ。しほは落魄《らくたく》して江戸に来て、木挽町《こびきちょう》の芸者になり、些《ちと》の財を得て業を罷《や》め、新堀《しんぼり》に住んでいたそうである。榛軒が娶ったのはこの時の事である。しほは識《し》らぬ父の記念《かたみ》の印籠《いんろう》一つを、母から承《う》け伝えて持っていた。榛軒がしほに生ませた女《むすめ》かえは、一時池田京水の次男|全安《ぜんあん》を迎えて夫としていたが、全安が広く内科を究めずに、痘科と唖《あ》科とに偏するというを以て、榛軒が全安を京水の許《もと》に還したそうである。
 榛軒は辺幅《へんぷく》を脩《おさ》めなかった。渋江の家を訪《と》うに、踊りつつ玄関から入《い》って、居間の戸の外から声を掛けた。自ら鰻《うなぎ》を誂《あつら》えて置いて来て、粥《かゆ》を所望《しょもう》することもあった。そして抽斎に、「どうぞ己《おれ》に構ってくれるな、己には御新造《ごしんぞう》が合口《あいくち》だ」といって、書斎に退かしめ、五百と語りつつ飲食《のみくい》するを例としたそうである。
 榛軒が歿してから一月《いちげつ》の後《のち》、十二月十六日に弟柏軒が躋寿館《せいじゅかん》の講師にせられた。森|枳園《きえん》らと共に『千金方』校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になっていた。
 この年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新を謀《はか》って、横山町《よこやまちょう》の家を漆器店《しっきみせ》のみとし、別に本町《ほんちょう》二丁目に居宅を置くことにした。この計画のために、抽斎は二階の四室を明けて、宗右衛門夫妻、敬《けい》、銓《せん》の二女、女中|一人《いちにん》、丁稚《でっち》一人を棲《す》まわせた。
 嘉永六年正月十九日に、抽斎の六女|水木《みき》が生れた。家族は主人夫婦、恒善夫婦、陸《くが》、水木の六人で、優善《やすよし》は矢島氏の主人になっていた。抽斎四十九歳、五百《いお》三十八歳の時である。
 この年二月二十六日に、堀川|舟庵《しゅうあん》が躋寿館の講師にせられて、『千金方』校刻の事に任じた三人の中《うち》森枳園が一人残された。
 安政元年はやや事多き年であった。二月十四日に五男|専六《せんろく》が生れた。後に脩《おさむ》と名告《なの》った人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽斎は子婦《しふ》糸の父田口儀三郎の窮を憫《あわれ》んで、百両余の金を餽《おく》り、糸をば有馬宗智《ありまそうち》というものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、年《とし》に五人扶持を給せられることになった。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋寿館医書彫刻|手伝《てつだい》を仰附けられた。今度校刻すべき書は、円融《えんゆう》天皇の天元《てんげん》五年に、丹波康頼《たんばやすより》が撰んだという『医心方《いしんほう》』である。
 保さんの所蔵の「抽斎手記」に、『医心方』の出現という語がある。昔から厳《おごそか》に秘せられていた書が、忽《たちま》ち目前に出て来た状《さま》が、この語で好く表《あらわ》されている。「秘玉突然開※[#「木+賣」、第4水準2−15−72]出《ひぎょくとつぜんはこをひらきていづ》。瑩光明徹点瑕無《えいこうめいてつてんかなし》。金龍山畔波濤起《きんりょうさんはんはとうおこり》。龍口初探是此珠《りょうこうはじめてさぐりしはこれこのたま》。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時|喜《よろこび》を記した詩である。龍口《りょうこう》といったのは、『医心方』が若年寄《わかどしより》遠藤但馬守|胤統《たねのり》の手から躋寿館に交付せられたからであろう。遠藤の上屋敷は辰口《たつのくち》の北角《きたかど》であった。

   その四十四

 日本の古医書は『続群書類従《ぞくぐんしょるいじゅう》』に収めてある和気広世《わけひろよ》の『薬経太素《やくけいたいそ》』、丹波康頼《たんばのやすより》の『康頼本草《やすよりほんぞう》』、釈蓮基《しゃくれんき》の『長生《ちょうせい》療養方』、次に多紀家で校刻した深根輔仁《ふかねすけひと》の『本草和名《ほんぞうわみょう》』、丹波|雅忠《まさただ》の『医略抄』、宝永中に印行《いんこう》せられた具平親王《ともひらしんのう》の『弘決外典抄《ぐけつげてんしょう》』の数種を存す
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