《あいじゃく》する縁故があるからである。
戴曼公は書法を高天※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《こうてんい》に授けた。天※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]、名は玄岱《げんたい》、初《はじめ》の名は立泰《りゅうたい》、字《あざな》は子新《ししん》、一の字《あざな》は斗胆《とたん》、通称は深見新左衛門《ふかみしんざえもん》で、帰化|明人《みんひと》の裔《えい》である。祖父|高寿覚《こうじゅかく》は長崎に来て終った。父|大誦《たいしょう》は訳官になって深見氏を称した。深見は渤海《ぼっかい》である。高氏は渤海より出《い》でたからこの氏を称したのである。天※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]は書を以て鳴ったもので、浅草寺《せんそうじ》の施無畏《せむい》の※[#「匸<扁」、第4水準2−3−48]額《へんがく》の如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]の子が頤斎《いさい》である。頤斎の弟子《ていし》が峩斎《がさい》である。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる所以《ゆえん》である。
戴曼公はまた痘科を池田|嵩山《すうざん》に授けた。嵩山の曾孫が錦橋《きんきょう》、錦橋の姪《てつ》が京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏の偶《たまたま》獲た曼公の遺品を愛重《あいちょう》して措《お》かなかった所以である。
この薬師如来は明治の代《よ》となってから守田宝丹《もりたほうたん》が護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。
貞固と東堂とは、共に留守居の物頭《ものがしら》を兼ねていた。物頭は詳しくは初手《しょて》足軽頭《あしがるがしら》といって、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も独礼《どくれい》の格式である。平時は中下《なかしも》屋敷附近に火災の起《おこ》るごとに、火事|装束《しょうぞく》を着けて馬に騎《の》り、足軽数十人を随《したが》えて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。
貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。帆足万里《ほあしばんり》はかつて留守居を罵《ののし》って、国財を靡《び》し私腹を肥やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。しかし保《たもつ》さんは少時帆足の文を読むごとに心|平《たいら》かなることを得なかったという。それは貞固の人《ひと》と為《な》りを愛していたからである。
嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた棠子《とうこ》が、痘を病んで死んだ。尋《つ》いで十五日に、五女|癸巳《きし》が感染して死んだ。彼は七歳、此《これ》は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかったと見える。三月二十八日に、長子|恒善《つねよし》が二十六歳で、柳島に隠居していた信順《のぶゆき》の近習《きんじゅ》にせられた。六月十二日に、二子|優善《やすよし》が十七歳で、二百石八人扶持の矢島玄碩《やじまげんせき》の末期養子《まつごようし》になった。この年渋江氏は本所|台所町《だいどころちょう》に移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
優善は渋江一族の例を破って、少《わこ》うして烟草《タバコ》を喫《の》み、好んで紛華奢靡《ふんかしゃび》の地に足を容《い》れ、とかく市井のいきな事、しゃれた事に傾《かたぶ》きやすく、当時早く既に前途のために憂うべきものがあった。
本所で渋江氏のいた台所町は今の小泉町《こいずみちょう》で、屋敷は当時の切絵図《きりえず》に載せてある。
その四十三
嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵|田口儀三郎《たぐちぎさぶろう》の養女|糸《いと》を娶《めと》った。五月十八日に、恒善に勤料《つとめりょう》三人扶持を給せられた。抽斎が四十人歳、五百が三十七歳の時である。
伊沢氏ではこの年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人の交《まじわり》は頗《すこぶ》る親しかった。楷書《かいしょ》に片仮名を交《ま》ぜた榛軒の尺牘《せきどく》には、宛名《あてな》が抽斎賢弟としてあった。しかし抽斎は小島成斎におけるが如く心を傾けてはいなかったらしい。
榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでいた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大な構《かまえ》であった。庭には吉野桜《よしのざくら》八|株《しゅ》を栽《う》え、花の頃には親戚《しんせき》知友を招いてこれを賞した。その日には榛軒の妻《さい》飯田氏しほと女《むすめ》かえと
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