しゅんしょう》、字《あざな》は伯民《はくみん》、小字《おさなな》は清太郎《せいたろう》、通称は修理《しゅり》で、東堂《とうどう》と号した。文化十一年|生《うまれ》で貞固よりは二つの年下である。平井の家は世禄《せいろく》二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。
貞固は好丈夫《こうじょうふ》で威貌《いぼう》があった。東堂もまた風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》人に優れて、しかも温容|親《したし》むべきものがあった。そこで世の人は津軽家の留守居は双壁《そうへき》だと称したそうである。
当時の留守居役所には、この二人《ふたり》の下に留守居|下役《したやく》杉浦多吉《すぎうらたきち》、留守居|物書《ものかき》藤田徳太郎《ふじたとくたろう》などがいた。杉浦は後|喜左衛門《きざえもん》といった人で、事務に諳錬《あんれん》した六十余の老人であった。藤田は維新後に潜《ひそむ》と称した人で、当時まだ青年であった。
或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を属《しょく》せしめた。藤田は案を具《ぐ》して呈した。
「藤田。まずい文章だな。それにこの書様《かきざま》はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は頗《すこぶ》る不機嫌に見えた。
原来《がんらい》平井氏は善書《ぜんしょ》の家である。祖父|峩斎《がさい》はかつて筆札《ひっさつ》を高頤斎《こういさい》に受けて、その書が一時に行われたこともある。峩斎、通称は仙右衛門《せんえもん》、その子を仙蔵《せんぞう》という。後《のち》父の称を襲《つ》ぐ。この仙蔵の子が東堂である。東堂も沢田東里《さわだとうり》の門人で書名があり、かつ詩文の才をさえ有していた。それに藤田は文においても書においても、専門の素養がない。稿を更《あらた》めて再び呈したが、それが東堂を満足せしめるはずがない。
「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといっても好《い》い。」こういって案を藤田に還《かえ》した。
藤田は股栗《こりつ》した。一身の恥辱、家族の悲歎が、頭《こうべ》を低《た》れている青年の想像に浮かんで、目には涙が涌《わ》いて来た。
この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の顛末《てんまつ》を知った。
貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。
「うん。一通《ひととおり》わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。足下《そっか》は気が利《き》かないのだ。」
こういって置いて、貞固は殆《ほとん》ど同じような文句を巻紙《まきがみ》に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで好《い》いかな。」
東堂は毫《ごう》も敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色を和《やわら》げていった。
「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」
貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合に遣《や》るが好い。」
藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。想《おも》うに東堂は外《ほか》柔にして内《うち》険、貞固は外《ほか》猛にして内《うち》寛であったと見える。
わたくしは前に貞固が要職の体面《たいめん》をいたわるがために窮乏して、古褌《ふるふんどし》を着けて年を迎えたことを記《しる》した。この窮乏は東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここに中井敬所《なかいけいしょ》が大槻如電《おおつきにょでん》さんに語ったという一の事実があって、これが証に充《み》つるに足るのである。
この事は前《さき》の日わたくしが池田|京水《けいすい》の墓と年齢とを文彦さんに問いに遣《や》った時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故《なにゆえ》に如電さんは平井氏の事を以て答えたか。それには理由がある。平井東堂の置いた質《しち》が流れて、それを買ったのが、池田京水の子|瑞長《ずいちょう》であったからである。
その四十二
東堂が質に入れたのは、銅仏|一躯《いっく》と六方印《ろくほういん》一顆《いっか》とであった。銅仏は印度《インド》で鋳造した薬師如来《やくしにょらい》で、戴曼公《たいまんこう》の遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印《ゆういん》である。
質流《しちながれ》になった時、この仏像を池田瑞長が買った。然《しか》るに東堂は後《のち》金が出来たので、瑞長に交渉して、価《あたい》を倍して購《あがな》い戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜
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