をした人には、五年|前《ぜん》に共に講師に任ぜられた町医|坂上玄丈《さかがみげんじょう》があった。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られていたので、人がその殊遇《しゅぐう》を美《ほ》めて三年前に目見をした松浦《まつうら》壱岐守《いきのかみ》慮《はかる》の臣|朝川善庵《あさかわぜんあん》と並称した。善庵は抽斎の謁見に先《さきだ》つこと一月《いちげつ》、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しく交《まじわ》って、渋江の家の発会《ほっかい》には必ず来る老人株の一人であった。善庵、名は鼎《てい》、字は五鼎、実は江戸の儒家|片山兼山《かたやまけんざん》の子である。兼山の歿した後《のち》、妻《つま》原|氏《うじ》が江戸の町医朝川|黙翁《もくおう》に再嫁した。善庵の姉|寿美《すみ》と兄|道昌《どうしょう》とは当時の連子《つれこ》で、善庵はまだ母の胎内にいた。黙翁は老いて病《やむ》に至って、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵に実《じつ》を告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁の撫育《ぶいく》の恩に感じて肯《うけが》わず、黙翁もまた強いて言わなかった。善庵は次男|格《かく》をして片山氏を嗣《つ》がしめたが、格は早世した。長男|正準《せいじゅん》は出《い》でて相田《あいだ》氏を冒《おか》したので、善庵の跡は次女の壻横山氏|※[#「鹿/辰」、117−6]《しん》が襲《つ》いだ。
 弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかった。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは一人《いちにん》もなかった。しかし当時世間一般には目見以上ということが、頗《すこぶ》る重きをなしていたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置には榛軒自己をして喫驚《きっきょう》せしむるものがあった。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見を畢《おわ》って帰って、常の如く通用門を入《い》らんとすると、門番が忽《たちま》ち本門の側《かたわら》に下座した。榛軒は誰《たれ》を迎えるのかと疑って、四辺《しへん》を顧《かえりみ》たが、別に人影は見えなかった。そこで始て自分に礼を行うのだと知った。次いで常の如く中の口から進もうとすると、玄関の左右に詰衆《つめしゅう》が平伏しているのに気が附いた。榛軒はまた驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。
 目見は此《かく》の如く世の人に重視せられる習《ならい》であったから、この栄を荷《にな》うものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかった。津軽家では一カ年間に返済すべしという条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつつも、殆《ほとん》どこれを何の費《ついえ》に充《あ》てようかと思い惑った。
 目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき賓客《ひんかく》の数《すう》もほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には多く客《かく》を延《ひ》くべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。五百《いお》の兄忠兵衛が来て、三十両の見積《みつもり》を以て建築に着手した。抽斎は銭穀《せんこく》の事に疎《うと》いことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は大家《たいけ》の若檀那《わかだんな》上《あが》りで、金を擲《なげう》つことにこそ長じていたが、※[#「革+斤」、第3水準1−93−77]《おし》んでこれを使うことを解せなかった。工事いまだ半《なかば》ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。
 平生《へいぜい》金銭に無頓着《むとんじゃく》であった抽斎も、これには頗る当惑して、鋸《のこぎり》の音|槌《つち》の響のする中で、顔色《がんしょく》は次第に蒼《あお》くなるばかりであった。五百は初《はじめ》から兄の指図を危《あやぶ》みつつ見ていたが、この時夫に向っていった。
「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、御《ご》一代に幾度《いくたび》というおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」
 抽斎は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に調達《ちょうだつ》せられるものではない。お前は何か当《あて》があってそういうのか。」
 五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしが痴《おろか》でも、当なしには申しませぬ。」

   その三十九

 五百《いお》は女中に書状を持たせて、ほど近い質屋へ遣《や》った。即ち市野迷庵の跡の家である。彼《か》の今に至るまで石に彫《え》られずにある松崎|慊堂《こうどう》の文にいう如く、迷庵は柳原
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