を迎えた。枳園だけは病家へ往《ゆ》かなくてはならぬ職業なので、衣類も一通《ひととおり》持っていたが、家族は身に着けたものしか持っていなかった。枳園の妻|勝《かつ》の事を、五百《いお》があれでは素裸《すはだか》といっても好《い》いといった位である。五百は髪飾から足袋《たび》下駄《げた》まで、一切|揃《そろ》えて贈った。それでも当分のうちは、何かないものがあると、蔵から物を出すように、勝は五百の所へ貰《もら》いに来た。或日これで白縮緬の湯具《ゆぐ》を六本|遣《や》ることになると、五百がいったことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位|恬然《てんぜん》として世話をさせたかということが、これによって想像することが出来る。また枳園に幾多の悪《あく》性癖があるにかかわらず、抽斎がどの位、その才学を尊重していたかということも、これによって想像することが出来る。
 枳園が医書彫刻取扱|手伝《てつだい》という名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。
 当時躋寿館で校刻に従事していたのは、『備急《びきゅう》千金要方』三十巻三十二冊の宋槧本《そうざんぼん》であった。これより先《さ》き多紀氏は同じ孫思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《そんしばく》の『千金|翼方《よくほう》』三十巻十二冊を校刻した。これは元《げん》の成宗《せいそう》の大徳《だいとく》十一年|梅渓《ばいけい》書院の刊本を以て底本としたものである。尋《つ》いで手に入《い》ったのが『千金要方』の宋版である。これは毎巻|金沢文庫《かなざわぶんこ》の印があって、北条顕時《ほうじょうあきとき》の旧蔵本である。米沢《よねざわ》の城主|上杉《うえすぎ》弾正大弼《だんじょうのだいひつ》斉憲《なりのり》がこれを幕府に献じた。細《こまか》に検すれば南宋『乾道淳煕《けんどうじゅんき》』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋の旧面目《きゅうめんぼく》を存している。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになった。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来|伊沢磐安《いさわばんあん》、黒田《くろだ》豊前守《ぶぜんのかみ》直静《なおちか》の家来|堀川舟庵《ほりかわしゅうあん》、それから多紀|楽真院《らくしんいん》門人|森養竹《もりようちく》である。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』の跋《ばつ》に見えている堀川|済《せい》である。舟庵の主《しゅ》黒田直静は上総国|久留利《くるり》の城主で、上屋敷は下谷広小路《したやひろこうじ》にあった。
 任命は若年寄《わかどしより》大岡|主膳正《しゅぜんのかみ》忠固《ただかた》の差図を以て、館主多紀|安良《あんりょう》が申し渡し、世話役小島|春庵《しゅんあん》、世話役手伝勝本|理庵《りあん》、熊谷《くまがい》弁庵《べんあん》が列座した。安良は即ち暁湖《ぎょうこ》である。
 何故《なにゆえ》に枳園が※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであって、まだ表向《おもてむき》になっていなかったのでもあろうか。枳園は四十二歳になっていた。
 この年八月二十九日に、真志屋《ましや》五郎作《ごろさく》が八十歳で歿した。抽斎はこの時三世|劇神仙《げきしんせん》になったわけである。
 嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて登城《とじょう》した。躑躅《つつじ》の間《ま》において、老中《ろうじゅう》牧野備前守|忠雅《ただまさ》の口達《こうたつ》があった。年来学業出精に付《つき》、ついでの節|目見《めみえ》仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
 わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭《てぜま》なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け出《い》でたものである。

   その三十八

 抽斎の将軍|家慶《いえよし》に謁見したのは、世の異数となす所であった。素《もと》より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた建部《たけべ》内匠頭《たくみのかみ》政醇《まさあつ》家来|辻元※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵《つじもとしゅうあん》の如く目見《めみえ》の栄に浴する前例はあったが、抽斎に先《さきだ》って伊沢|榛軒《しんけん》が目見をした時には、藩主阿部正弘が老中《ろうじゅう》になっているので、薦達《せんたつ》の早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見
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