ぎみ》である。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移った。七年三月二十八日には十一歳で元服して、従《じゅ》四位|上《じょう》侍従参河守斉民となった。九年十二月には十三歳で少将にせられた。人と成って後|確堂公《かくどうこう》と呼ばれたのはこの人で、成島柳北《なるしまりゅうほく》の碑の篆額《てんがく》はその筆《ふで》である。そうして見ると、この人が鬼になって五百に捉《とら》えられたのは、従四位上侍従になってから後《のち》で、ただ少将であったか、なかったかが疑問である。津山邸に館《やかた》はあっても、本丸に寝泊《ねとまり》して、小字《おさなな》の銀之助を呼ばれていたものと見える。年は五百より二つ上である。
五百の本丸を下《さが》ったのは何時《いつ》だかわからぬが、十五歳の時にはもう藤堂家《とうどうけ》に奉公していた。五百が十五歳になったのは、天保元年である。もし十四歳で本丸を下ったとすると、文政十二年に下ったことになる。
五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家という大名の屋敷を目見《めみえ》をして廻《まわ》ったそうである。その頃も女中の目見は、君《きみ》臣《しん》を択《えら》ばず、臣君を択ぶというようになっていたと見えて、五百が此《かく》の如くに諸家の奥へ覗《のぞ》きに往ったのは、到処《いたるところ》で斥《しりぞ》けられたのではなく、自分が仕うることを肯《がえん》ぜなかったのだそうである。
しかし二十余家を経廻《へめぐ》るうちに、ただ一カ所だけ、五百が仕えようと思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守|豊資《とよすけ》の家であった。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。
五百が鍛冶橋内《かじばしうち》の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、音曲《おんぎょく》の嗜《たしなみ》を験《ため》されるのである。試官は老女である。先ず硯箱《すずりばこ》と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお染《そめ》を」という。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから常磐津《ときわず》を一曲語らせられた。これらの事は他家と何の殊《こと》なることもなかったが、女中が悉《ことごと》く綿服《めんぷく》であったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこの家に奉公したいと決心した。奥方は松平|上総介《かずさのすけ》斉政《なりまさ》の女《むすめ》である。
この時老女がふと五百《いお》の衣類に三葉柏《みつばがしわ》の紋の附いているのを見附けた。
その三十二
山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けているかと問うた。
五百は自分の家が山内氏で、昔から三葉柏《みつばがしわ》の紋を附けていると答えた。
老女は暫《しばら》く案じてからいった。御用に立ちそうな人と思われるから、お召抱《めしかかえ》になるように申し立てようと思う。しかしその紋は当分御遠慮申すが好かろう。由緒《ゆいしょ》のあることであろうから、追ってお許《ゆるし》を願うことも出来ようといった。
五百は家に帰って、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、先祖《せんそ》から承《う》けて子孫に伝える大切なものである。濫《みだり》に匿《かく》したり更《あらた》めたりすべきものではない。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、せぬが好《よ》いといったのである。
五百が山内家をことわって、次に目見《めみえ》に往ったのが、向柳原《むこうやなぎはら》の藤堂家の上屋敷であった。例の考試は首尾好く済んだ。別格を以て重く用いても好いといって、懇望せられたので、諸家を廻《まわ》り草臥《くたび》れた五百は、この家に仕えることに極《き》めた。
五百はすぐに中臈《ちゅうろう》にせられて、殿様|附《づき》と定《さだ》まり、同時に奥方|祐筆《ゆうひつ》を兼ねた。殿様は伊勢国|安濃郡《あのごおり》津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂|和泉守《いずみのかみ》高猷《たかゆき》である。官位は従《じゅ》四位侍従になっていた。奥方は藤堂|主殿頭《とものかみ》高※[#「山/松」、第3水準1−47−81]《たかたけ》の女《むすめ》である。
この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならば女小姓《おんなこしょう》に取らるべきであった。それが一躍して中臈を贏《か》ち得たのは破格である。女小姓は茶、烟草《タバコ》、手水《ちょうず》などの用を弁ずるもので、今いう小間使《こまづかい》である。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、妾《しょう》になったと見ても
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