詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数えたが、※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]《たちま》ち来り※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]ち去った女《むすめ》好の名は見《あら》わすことが出来なかった。
天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
この年に躋寿館《せいじゅかん》で書を講じて、陪臣|町医《まちい》に来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て新《あらた》に講師が任用せられた。初《はじめ》館には都講《とこう》、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時|多紀藍渓《たきらんけい》時代に百日課《ひゃくにちか》の制を布《し》いて、医学も経学《けいがく》も科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒に聴《き》かせたのである。百日課は四年間で罷《や》んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎を起《た》たしむることとなったのは、この制度あるがためである。
弘化元年は抽斎のために、一大転機を齎《もたら》した。社会においては幕府の直参《じきさん》になり、家庭においては岡西氏徳のみまかった跡へ、始て才色兼ね備わった妻が迎えられたのである。
この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日に老中《ろうじゅう》土井《どい》大炊頭《おおいのかみ》利位《としつら》を以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期|登城《とじょう》を命ぜられた。年始、八朔《はっさく》、五節句、月並《つきなみ》の礼に江戸城に往《ゆ》くことになったのである。十一月六日に神田|紺屋町《こんやちょう》鉄物問屋《かなものどいや》山内忠兵衛妹|五百《いお》が来り嫁した。表向《おもてむき》は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹|翳《かざし》として届けられた。十二月十日に幕府から白銀《はくぎん》五枚を賜わった。これは以下恒例になっているから必ずしも書かない。同月二十六日に長女|純《いと》が幕臣|馬場玄玖《ばばげんきゅう》に嫁した。時に年十六である。
抽斎の岡西氏徳を娶《めと》ったのは、その兄玄亭が相貌《そうぼう》も才学も人に優れているのを見て、この人の妹ならと思ったからである。然るに伉儷《こうれい》をなしてから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだ好《よ》かったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄の褊狭《へんきょう》な気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。
最初の妻|定《さだ》は貧家の女《むすめ》の具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父|允成《ただしげ》が或時、己《おれ》の考が悪かったといって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほど厭《いや》とは思わなかった。二人《ににん》目の妻|威能《いの》は怜悧《れいり》で、人を使う才があった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。
その三十
克己を忘れたことのない抽斎は、徳を叱《しか》り懲らすことはなかった。それのみではない。あらわに不快の色を見せもしなかった。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにいた。そして弘前へ立った。初度の旅行の時の事である。
さて抽斎が弘前にいる間、江戸の便《たより》があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、殆《ほとん》ど日記のように悉《くわし》く書いたのである。抽斎は初め数行《すうこう》を読んで、直《ただ》ちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えていたからである。
允成は抽斎の徳に親《したし》まぬのを見て、前途のために危《あやぶ》んでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えて手習《てならい》をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本《もと》づいて文案を作って、徳に筆を把《と》らせ、家内《かない》の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。
二年近い旅から帰って、抽斎は勉《つと》めて徳に親んで、父の心を安《やすん》ぜようとした。それから二年立って優善《やすよし》が生れた。
尋《つ》いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年|淹留《えんりゅう》した。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いて好《よし》が生れ、その翌年また八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立って亡くなった。
そして徳の亡くなった跡へ山内氏|五百《いお》が来ることになった。抽斎の身分は徳
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