《けいせん》詩集』、『遊相医話《ゆうそういわ》』などという、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。寿蔵碑《じゅぞうひ》には、浦賀《うらが》、大磯《おおいそ》、大山《おおやま》、日向《ひなた》、津久井《つくい》県の地名が挙げてある。大山は今の大山|町《まち》、日向は今の高部屋《たかべや》村で、どちらも大磯と同じ中郡《なかごおり》である。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流している。桂川《かつらがわ》はこの川の上流である。
後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうである。この銭は箱根の湯本《ゆもと》に着くと、もう遣《つか》い尽していた。そこで枳園はとりあえず按摩《あんま》をした。上下《かみしも》十六文の※[#「米+胥」、第4水準2−83−94]銭《しょせん》を獲《う》るも、なお已《や》むにまさったのである。啻《ただ》に按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「無論内外二科《ないがいにかをろんずるなく》、或為収生《あるいはしゅうせいをなし》、或為整骨《あるいはせいこつをなし》、至于牛馬※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]狗之疾《ぎゅうばけいくのしつにいたるまで》、来乞治者《きたりてちをこうものに》、莫不施術《せじゅつせざるはなし》」と、自記の文にいってある。収生《しゅうせい》はとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医の縄張内《なわばりない》にも立ち入った。医者の歯を治療するのをだに拒もうとする今の人には、想像することも出来ぬ事である。
老いたる祖母は浦賀で困厄《こんやく》の間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己を併《あわ》せて四人の口を、此《かく》の如き手段で糊《のり》しなくてはならなかった。しかし枳園の性格から推せば、この間に処して意気|沮喪《そそう》することもなく、なお幾分のボンヌ・ユミヨオルを保有していたであろう。
枳園はようよう大磯に落ち着いた。門人が名主《なぬし》をしていて、枳園を江戸の大先生として吹聴《ふいちょう》し、ここに開業の運《はこび》に至ったのである。幾ばくもなくして病家の数《かず》が殖《ふ》えた。金帛《きんはく》を以て謝することの出来ぬものも、米穀|菜蔬《さいそ》を輸《おく》って庖厨《ほうちゅう》を賑《にぎわ》した。後には遠方から轎《かご》を以て迎えられることもある。馬を以て請《しょう》ぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、中《なか》、三浦《みうら》両郡の間を往来し、ここに足掛十二年の月日を過すこととなった。
抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日|忌明《きあき》と書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主|信順《のぶゆき》に随《したが》って江戸に帰った。三十五歳になった年である。
この年五月十五日に、津軽家に代替《だいがわり》があった。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷に遷《うつ》り、同じ齢《よわい》の順承《ゆきつぐ》が小津軽《こつがる》から入《い》って封を襲《つ》いだ。信順は頗《すこぶ》る華美を好み、動《やや》もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を馴致《じゅんち》し、遂に引退したのだそうである。
抽斎はこれから隠居信順|附《づき》にせられて、平日は柳島の館《やかた》に勤仕し、ただ折々上屋敷に伺候した。
その二十九
天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素|画《え》を鑑賞することについては、なにくれとなく教《おしえ》を乞い、また古器物《こきぶつ》や本艸《ほんぞう》の参考に供すべき動植物を図《ず》するために、筆の使方《つかいかた》、顔料《がんりょう》の解方《ときかた》などを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を両国《りょうごく》の万八楼《まんはちろう》で催したのを名残《なごり》にして、今年|亡人《なきひと》の数に入《い》ったのである。跡は文化九年|生《うまれ》で二十九歳になる文二《ぶんじ》が嗣《つ》いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻|阿佐《あさ》は、もう五年前に夫に先《さきだ》って死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。
天保十二年には、岡西氏|徳《とく》が二女《じじょ》好《よし》を生んだが、好は早世した。閏《じゅん》正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男|八三郎《はちさぶろう》が生れたが、これも夭折《ようせつ》した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する初《はじめ》において、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の
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