め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる詰越《つめこし》をすることになった。例に依《よ》って翌年江戸に帰らずに、二冬《ふたふゆ》を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕《ぶた》の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶《もん》を遣《や》った。抽斎が酒を飲み、獣肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くら》うようになったのはこの時が始である。
 しかし抽斎は生涯|煙草《タバコ》だけは喫《の》まずにしまった。允成の直系卑属は、今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのだそうである。但し抽斎の次男優善は破格であった。
 抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。徒士町《かちまち》の池田の家で、当主|瑞長《ずいちょう》が父京水の例に倣《なら》って、春の初《はじめ》に発会式《ほっかいしき》ということをした。京水は毎年《まいねん》これを催して、門人を集《つど》えたのであった。然るに今年《ことし》抽斎が往って見ると、名は発会式と称しながら、趣は全く前日に異《ことな》っていて、京水時代の静粛は痕《あと》だに留《とど》めなかった。芸者が来て酌《しゃく》をしている。森枳園が声色を使っている。抽斎は暫《しばら》く黙して一座の光景を視《み》ていたが、遂に容《かたち》を改めて主客の非礼を責めた。瑞長は大いに羞《は》じて、すぐに芸者に暇《いとま》を遣ったそうである。
 引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家を逐《お》われて、祖母、母、妻|勝《かつ》、生れて三歳の倅《せがれ》養真の四人を伴って夜逃《よにげ》をしたのである。後に枳園の自ら選んだ寿蔵碑《じゅぞうひ》には「有故失禄」と書してあるが、その故は何かというと、実に悲惨でもあり、また滑稽《こっけい》でもあった。
 枳園は好劇家であった。単に好劇というだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優の技《ぎ》を、観棚《かんぽう》から望み見て楽《たのし》むに過ぎない。枳園は自らその科白《かはく》を学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登って※[#「木+邦」、87−8]子《つけ》を撃った。後にはいわゆる相中《あいちゅう》の間《あいだ》に混じて、並大名《ならびだいみょう》などに扮《ふん》し、また注進などの役をも勤めた。
 或日阿部家の女中が宿に下《さが》って芝居を看《み》に往《ゆ》くと、ふと登場している俳優の一人が養竹《ようちく》さんに似ているのに気が附いた。そう思って、と見《み》こう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないと極《き》めた。そして邸《やしき》に帰ってから、これを傍輩《ほうばい》に語った。固《もと》より一の可笑《おか》しい事として語ったので、初より枳園に危害を及ぼそうとは思わなかったのである。
 さてこの奇談が阿部邸の奥表《おくおもて》に伝播《でんぱ》して見ると、上役《うわやく》はこれを棄《す》て置かれぬ事と認めた。そこでいよいよ君侯に稟《もう》して禄を褫《うば》うということになってしまった。

   その二十八

 枳園《きえん》は俳優に伍《ご》して登場した罪によって、阿部家の禄を失って、永《なが》の暇《いとま》になった。後に抽斎の四人目の妻となるべき山内氏|五百《いお》の姉は、阿部家の奥に仕えて、名を金吾《きんご》と呼ばれ、枳園をも識《し》っていたが、事件の起《おこ》る三、四年|前《ぜん》に暇を取ったので、当時の阿部家における細かい事情を知らなかった。
 永の暇になるまでには、相応に評議もあったことであろう。友人の中には、枳園を救おうとした人もあったことであろう。しかし枳園は平生|細節《さいせつ》に拘《かかわ》らぬ人なので、諸方面に対して、世にいう不義理が重なっていた。中にも一、二件の筆紙に上《のぼ》すべからざるものもある。救おうとした人も、これらの障礙《しょうがい》のために、その志を遂げることが出来なかったらしい。
 枳園は江戸で暫《しばら》く浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れて夜逃《よにげ》をした。恐らくはこの最後の策に出《い》づることをば、抽斎にも打明けなかっただろう。それは面目《めんぼく》がなかったからである。※[#「挈」の「手」に代えて「糸」、第3水準1−90−4]矩《けっく》の道を紳《しん》に書していた抽斎をさえ、度々忍びがたき目に逢《あ》わせていたからである。
 枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう幾人《いくたり》かの門人があって、その中《うち》に相模の人がいたのをたよって逃げたのである。この落魄《らくたく》中の精《くわ》しい経歴は、わたくしにはわからない。『桂川
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