に代って渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、世《よよ》要職におる比良野氏の当主文蔵を父に持っていた。貧家の女《じょ》に懲りて迎えた子婦《よめ》であろう。そしてこの子婦は短命ではあったが、夫の家では人々に悦《よろこ》ばれていたらしい。何故そういうかというに、後《のち》威能が亡くなり、次の三人目の妻がまた亡くなって、四人目の妻が商家から迎えられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になったからである。渋江氏と比良野氏との交誼《こうぎ》が、後に至るまで此《かく》の如くに久しく渝《かわ》らずにいたのを見ても、婦壻《よめむこ》の間にヂソナンスのなかったことが思い遣られる。
 比良野氏は武士|気質《かたぎ》の家であった。文蔵の父、威能の祖父であった助太郎《すけたろう》貞彦《さだひこ》は文事と武備とを併《あわ》せ有した豪傑の士である。外浜《がいひん》また嶺雪《れいせつ》と号し、安永五年に江戸藩邸の教授に挙げられた。画《え》を善くして、「外浜画巻《そとがはまがかん》」及「善知鳥《うとう》画軸」がある。剣術は群を抜いていた。壮年の頃|村正《むらまさ》作の刀《とう》を佩《お》びて、本所|割下水《わりげすい》から大川端《おおかわばた》辺《あたり》までの間を彷徨《ほうこう》して辻斬《つじぎり》をした。千人斬ろうと思い立ったのだそうである。抽斎はこの事を聞くに及んで、歎息して已《や》まなかった。そして自分は医薬を以て千人を救おうという願《がん》を発《おこ》した。
 天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女|純《いと》が生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、帰《とつ》いでから僅に三年目である。十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守|正寧《まさやす》の医官|岡西栄玄《おかにしえいげん》の女《じょ》徳が抽斎に嫁した。この年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を賜わった。これは従来|寧親《やすちか》信順《のぶゆき》二公にかわるがわる勤仕していたのに、六月からは兼《かね》て岩城隆喜《いわきたかひろ》の室《しつ》、信順の姉もと姫に、また八月からは信順の室|欽姫《かねひめ》に伺候することになったからであろう。
 この時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、尾島《おじま》氏|出《しゅつ》の嫡子|恒善《つねよし》、比良野氏|出《しゅつ》の長女純の四人となっていた。抽斎が三人目の妻徳を娶《めと》るに至ったのは、徳の兄岡西|玄亭《げんてい》が抽斎と同じく蘭軒の門下におって、共に文字《もんじ》の交《まじわり》を訂していたからである。
 天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順に随《したが》って江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸に還《かえ》ったのは、翌五年十一月十五日である。この留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月|朔《さく》に二人《ににん》扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたためであろう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。
 抽斎の友森|枳園《きえん》が佐々木氏|勝《かつ》を娶って、始めて家庭を作ったのも天保四年で、抽斎が弘前に往った時である。これより先枳園は文政四年に怙《こ》を喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。蘭軒に従学する前二年の事である。

   その二十七

 天保六年|閏《うるう》七月四日に、抽斎は師|狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》を喪なった。六十一歳で亡くなったのである。十一月五日に、次男|優善《やすよし》が生れた。後に名を優《ゆたか》と改めた人である。この年抽斎は三十一歳になった。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の後《のち》は懐之《かいし》、字《あざな》は少卿《しょうけい》、通称は三平《さんぺい》が嗣《つ》いだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男|恒善《つねよし》、長女|純《いと》、次男優善の五人になった。
 同じ年に森|枳園《きえん》の家でも嫡子|養真《ようしん》が生れた。
 天保七年三月二十一日に、抽斎は近習詰《きんじゅづめ》に進んだ。これまでは近習格であったのである。十一月十四日に、師池田|京水《けいすい》が五十一歳で歿した。この年抽斎は三十二歳になった。
 京水には二人の男子《なんし》があった。長を瑞長《ずいちょう》といって、これが家業を襲《つ》いだ。次を全安《ぜんあん》といって、伊沢家の女壻になった。榛軒の女《むすめ》かえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷|弓町《ゆみちょう》に住んだ。
 天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主|信順《のぶゆき》に謁した。年|甫《はじめ》て十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随って弘前に往った。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。この年抽斎は三十三歳になった。
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