ただこれだけの事をここに記《しる》して置く。
 家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、始《はじめ》て妻を娶《めと》った。妻は下総国《しもうさのくに》佐倉の城主|堀田《ほった》相模守|正愛《まさちか》家来|大目附《おおめつけ》百石|岩田十大夫《いわたじゅうたゆう》女《むすめ》百合《ゆり》として願済《ねがいずみ》になったが、実は下野《しもつけ》国|安蘇郡《あそごおり》佐野《さの》の浪人|尾島忠助《おじまちゅうすけ》女《むすめ》定《さだ》である。この人は抽斎の父允成が、|子婦《よめ》には貧家に成長して辛酸を嘗《な》めた女を迎えたいといって選んだものだそうである。夫婦の齢《よわい》は抽斎が十九歳、定が十七歳であった。
 この年に森|枳園《きえん》は、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であったのに、去って直ちに蘭軒に従学することになった。当時西語にいわゆるシニックで奇癖が多く、朝夕《ちょうせき》好んで俳優の身振《みぶり》声色《こわいろ》を使う枳園の同窓に、今一人|塩田楊庵《しおだようあん》という奇人があった。素《もと》越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、宗《そう》対馬守《つしまのかみ》義質《よしかた》の臣塩田氏の女壻《じょせい》となった。塩田は散歩するに友を誘《いざな》わぬので、友が密《ひそか》に跡に附いて行って見ると、竹の杖《つえ》を指の腹に立てて、本郷|追分《おいわけ》の辺《へん》を徘徊《はいかい》していたそうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双の奇癖家として遇せられていた。声色|遣《つかい》も軽業師《かるわざし》も、共に十七歳の諸生であった。
 抽斎の母|縫《ぬい》は、子婦《よめ》を迎えてから半年立って、文政七年七月朔に剃髪して寿松《じゅしょう》と称した。
 翌文政八年三月|晦《みそか》には、当時抽斎の住んでいた元柳原町六丁目の家が半焼《はんやけ》になった。この年津軽家には代替《だいがわり》があった。寧親が致仕して、大隅守《おおすみのかみ》信順《のぶゆき》が封を襲《つ》いだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であった。
 次の文政九年は抽斎が種々の事に遭逢《そうほう》した年である。先ず六月二十八日に姉|須磨《すま》が二十五歳で亡くなった。それから八月十四日に、師市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子|
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