った、弘前の医官|小野道瑛《おのどうえい》の子|道秀《どうしゅう》も袂《たもと》を聯《つら》ねて入門した。
その二十五
抽斎の家督相続は文政五年八月|朔《さく》を以て沙汰《さた》せられた。これより先《さ》き四年十月朔に、抽斎は月並《つきなみ》出仕《しゅっし》仰附《おおせつ》けられ、五年二月二十八日に、御番《ごばん》見習《みならい》、表医者《おもていしゃ》仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番に入《い》った。家督相続の年には、抽斎が十八歳で、隠居した父|允成《ただしげ》が五十九歳であった。抽斎は相続後|直《ただ》ちに一粒金丹《いちりゅうきんたん》製法の伝授を受けた。これは八月十五日の日附《ひづけ》を以てせられた。
抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、相馬大作《そうまだいさく》が江戸|小塚原《こづかはら》で刑せられた。わたくしはこの偶然の符合のために、ここに相馬大作の事を説こうとするのではない。しかし事のついでに言って置きたい事がある。大作は津軽家の祖先が南部家の臣であったと思っていた。そこで文化二年以来津軽家の漸《ようや》く栄え行くのに平《たいらか》ならず、寧親《やすちか》の入国の時、途《みち》に要撃しようとして、出羽国秋田領|白沢宿《しらさわじゅく》まで出向いた。然《しか》るに寧親はこれを知って道を変えて帰った。大作は事|露《あらわ》れて捕《とら》えられたということである。
津軽家の祖先が南部家の被官であったということは、内藤恥叟《ないとうちそう》も『徳川十五代史』に書いている。しかし郷土史に精《くわ》しい外崎覚《とのさきかく》さんは、かつて内藤に書を寄せて、この説の誤《あやまり》を匡《ただ》そうとした。
初め津軽家と南部家とは対等の家柄であった。然るに津軽家は秀信《ひでのぶ》の世に勢《いきおい》を失って、南部家の後見《うしろみ》を受けることになり、後|元信《もとのぶ》、光信《みつのぶ》父子は人質として南部家に往っていたことさえある。しかし津軽家が南部家に仕えたことはいまだかつて聞かない。光信は彼《か》の渋江|辰盛《しんせい》を召し抱えた信政《のぶまさ》の六世の祖である。津軽家の隆興は南部家に怨《うらみ》を結ぶはずがない。この雪冤《せつえん》の文を作った外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出す媒《なかだち》をしたのだから、わたくしは
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