ていし》は五歳であった。次いで文化十一年に医学を修めんがために、伊沢蘭軒に師事した。師が三十八歳、弟子が十歳の時である。父|允成《ただしげ》は経芸《けいげい》文章を教えることにも、家業の医学を授けることにも、頗《すこぶ》る早く意を用いたのである。想うに後《のち》に師とすべき狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》とは、家庭でも会い、師迷庵の許《もと》でも会って、幼い時から親しくなっていたであろう。また後に莫逆《ばくぎゃく》の友となった小島成斎も、夙《はや》く市野の家で抽斎と同門の好《よしみ》を結んだことであろう。抽斎がいつ池田|京水《けいすい》の門を敲《たた》いたかということは今考えることが出来ぬが、恐らくはこれより後《のち》の事であろう。
文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽|寧親《やすちか》に謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想うに謁見の場所は本所《ほんじょ》二《ふた》つ目《め》の上屋敷であっただろう。謁見即ち目見《めみえ》は抽斎が弘前の士人として受けた礼遇の始《はじめ》で、これから月並《つきなみ》出仕《しゅっし》を命ぜられるまでには七年立ち、番入《ばんいり》を命ぜられ、家督相続をするまでには八年立っている。
抽斎が迷庵門人となってから八年目、文化十四年に記念すべき事があった。それは抽斎と森枳園《もりきえん》とが交《まじわり》を訂した事である。枳園は後年これを弟子入《でしいり》と称していた。文化四年十一月|生《うまれ》の枳園は十一歳になっていたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取ったことになる。
森枳園、名は立之《りっし》、字は立夫《りつふ》、初め伊織《いおり》、中ごろ養真《ようしん》、後|養竹《ようちく》と称した。維新後には立之を以て行われていた。父名は恭忠《きょうちゅう》、通称は同じく養竹であった。恭忠は備後国福山の城主|阿部《あべ》伊勢守|正倫《まさとも》、同《おなじく》備中守|正精《まさきよ》の二代に仕えた。その男《だん》枳園を挙げたのは、北八町堀《きたはっちょうぼり》竹島町《たけしまちょう》に住んでいた時である。後《のち》『経籍訪古志』に連署すべき二人《ににん》は、ここに始て手を握ったのである。因《ちなみ》にいうが、枳園は単独に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であ
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