より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年の生《うまれ》で、抽斎の生れた文化二年には七歳になっていた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年を享《う》くること六十三であった。

   その二十四

 石塚重兵衛の祖先は相模国《さがみのくに》鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷《したや》豊住町《とよずみちょう》に住んだ。世《よよ》粉商《こなしょう》をしているので、芥子屋《からしや》と人に呼ばれた。真《まこと》の屋号は鎌倉屋である。
 重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子の臼《うす》を踏むことがあった。そこで豊住町の芥子屋という意《こころ》で、自ら豊芥子《ほうかいし》と署した。そしてこれを以て世に行われた。その豊亭《ほうてい》と号するのも、豊住町に取ったのである。別に集古堂《しゅうこどう》という号がある。
 重兵衛に女《むすめ》が二人あって、長女に壻を迎えたが、壻は放蕩《ほうとう》をして離別せられた。しかし後に浅草《あさくさ》諏訪町《すわちょう》の西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそうである。
 重兵衛は文久元年に京都へ往《ゆ》こうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳の童《わらべ》であったはずである。
 重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に大槻如電《おおつきにょでん》さんが浅草|北清島町《きたきよじまちょう》報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に詣《もう》でて、忌日《きにち》に墓に来るものは河竹新七《かわたけしんしち》一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分が黙阿弥《もくあみ》の門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。
 以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった安積艮斎《あさかごんさい》、十歳であった小島成斎、九歳であった岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であった多紀※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》、二歳であった伊沢|榛軒《しんけん》がある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
 抽斎が始《はじめ》て市野迷庵の門に入《い》ったのは文化六年で、師は四十五歳、弟子《
前へ 次へ
全223ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング