槧本《そうざんほん》とか元槧本《げんざんほん》とかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れていたのである。
その三
わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。然《しか》るに少《わか》い時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜《さぐ》った。そこに「武鑑《ぶかん》」を検する必要が生じた。
「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮《きわ》むるに闕《か》くべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年を逐《お》って発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、殊《こと》に寛文《かんぶん》頃より古い類書は、諸侯の事を記《き》するに誤謬《ごびゅう》が多くて、信じがたいので、措《お》いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」の成立《なりたち》を考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によって正《ただ》すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに優《まさ》る史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」を蒐集《しゅうしゅう》することに着手した。
この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江|氏《うじ》蔵書記」という朱印のある本に度々《たびたび》出逢《であ》って、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、先《ま》ず知った。
そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」の中《うち》に数えるかという、「武鑑」のデフィニションを極《き》めて掛からなくてはならない。
それにはわたくしは『足利《あしかが》武鑑』、『織田《おだ》武鑑』、『豊臣《とよとみ》武鑑』というような、後の人のレコンストリュクションによって作られた書を最初に除く。次に『群書類従《ぐんしょるいじゅう》』にあるような分限帳《ぶんげんちょう》の類を除く。そうすると
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