ったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世に公《おおやけ》にせられなかった。
 抽斎の著《あらわ》した書で、存命中に印行《いんこう》せられたのは、ただ『護痘要法《ごとうようほう》』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水《いけだけいすい》に受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのも可笑《おか》しいほどの『四《よ》つの海』という長唄《ながうた》の本があるに過ぎない。但《ただ》しこれは当時作者が自家の体面《ていめん》をいたわって、贔屓《ひいき》にしている富士田千蔵《ふじたせんぞう》の名で公にしたのだが、今は憚《はばか》るには及ぶまい。『四つの海』は今なお杵屋《きねや》の一派では用いている謡物《うたいもの》の一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。
 然《しか》らば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園《もりきえん》と分担して書いたものであるが、これを上梓《じょうし》することは出来なかった。そのうち支那公使館にいた楊守敬《ようしゅけい》がその写本を手に入れ、それを姚子梁《ようしりょう》が公使|徐承祖《じょしょうそ》に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時|幸《さいわい》に森がまだ生存していて、校正したのである。
 世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。
 わたくしは少《わか》い時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆《しょし》と、ベルリン、パリイの書估《しょこ》との手に入《い》ってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。或《あ》る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテルスが多く書を読もうとして、廉価の本を渉猟《しょうりょう》し、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んで私《ひそ》かに殊域同嗜《しゅいきどうし》の人を獲《え》たと思った。それゆえわたくしは漢籍においても宋
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