その二

 抽斎はこの詩を作ってから三年の後《のち》、弘化《こうか》元年に躋寿館《せいじゅかん》の講師になった。躋寿館は明和《めいわ》二年に多紀玉池《たきぎょくち》が佐久間町《さくまちょう》の天文台|址《あと》に立てた医学校で、寛政《かんせい》三年に幕府の管轄《かんかつ》に移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子|藍渓《らんけい》、孫|桂山《けいざん》、曾孫|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]《りゅうはん》が死に、玄孫|暁湖《ぎょうこ》の代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》は、分家して館に勤めていたのである。今の制度に較《くら》べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。これと同時に抽斎は式日《しきじつ》に登城《とじょう》することになり、次いで嘉永《かえい》二年に将軍|家慶《いえよし》に謁見して、いわゆる目見《めみえ》以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至って始《はじめ》て言うことが出来たであろう。しかし貧窮は旧に依《よ》っていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人|扶持《ふち》出ることになり、安政《あんせい》元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以《もっ》て償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎の妻《さい》山内氏《やまのうちうじ》五百《いお》が、衣類や装飾品を売って費用に充《み》てたそうである。五百は徳が亡くなった後《のち》に抽斎の納《い》れた四人目の妻《さい》である。
 抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折《なかむらふせつ》さんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、この幅《ふく》を作らせたのである。
 抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。偶《たまたま》少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の一人《いちにん》として知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものを始《はじめ》として、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、許多《あまた》の著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなか
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