信順に扈随《こずい》して弘前に往《い》って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。煙草《タバコ》は終生|喫《の》まなかった。遊山《ゆさん》などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば出入《でいり》したが、それも同好の人々と一しょに平土間《ひらどま》を買って行くことに極《き》めていた。この連中を周茂叔連《しゅうもしゅくれん》と称《とな》えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。
抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購《あがな》うと客《かく》を養うとの二つの外に出《い》でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の手沢《しゅたく》を存じている書籍が少《すくな》くなかっただろうが、現に『経籍訪古志《けいせきほうこし》』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために貲《し》を惜《おし》まなかったことは想い遣《や》られる。
抽斎の家には食客《しょっかく》が絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、志《こころざし》があり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。
抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を瞥見《べっけん》すれば、抽斎はその貧に安んじて、自家《じか》の材能《さいのう》を父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みに看《み》るが好《よ》い。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才|伸《のぶ》を以《もっ》て妥《おだやか》に承《う》けられるはずがない。伸《のぶ》るというのは反語でなくてはならない。老驥《ろうき》櫪《れき》に伏《ふく》すれども、志千里にありという意がこの中《うち》に蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧を患《うれ》えずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうではない。久しく修養を積んで、内に恃《たの》む所のある作者は、身を困苦の中《うち》に屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。
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