ゆえん》を書して放縦|不覊《ふき》にして人に容《い》れられず、遂《つい》に多病を以て廃せらるといってあったらしい。
 両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が放蕩《ほうとう》であった。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、その説通ぜずというでもない。
 しかし京水が後《のち》能《よ》く自ら樹立して、その文章事業が晋に比して毫《ごう》も遜色《そんしょく》のないのを見るに、この人の凡庸でなかったことは、推測するに難《かた》くない。著述の考うべきものにも、『痘科挙要《とうかきょよう》』二巻、『痘科|鍵会通《けんかいつう》』一巻、『痘科|鍵私衡《けんしこう》』五巻、抽斎をして筆授せしめた『護痘要法《ごとうようほう》』一巻がある。養父独美が視《み》ること尋常|蕩子《とうし》の如くにして、これを逐《お》うことを惜《おし》まなかったのは、恩少きに過ぐというものではあるまいか。
 かつわたくしは京水の墓誌が何人《なにひと》の撰文《せんぶん》に係るかを知らない。しかし京水が果して独美の姪《てつ》であったなら、縦《たと》い独美が一時養って子となしたにもせよ、直《ただち》に瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。富士川さんの如きも、『日本医学史』に、墓誌に拠って瑞仙の子なりと書しているのである。また放縦だとか廃嗣だとかいうことも、此《かく》の如くに書したのが、墓誌として体《たい》を得たものであろうか。わたくしは大いにこれを疑うのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者を審《つまびらか》にすることを得ざるのを憾《うらみ》とする。
 わたくしは独《ひとり》撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。また二世瑞仙晋の撰んだ池田|氏《し》行状をも疑わざることを得ない。文は載せて『事実文編』四十五にある。
 行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年|乙卯《いつぼう》五月二十二日に生れ、文化十三年|丙子《へいし》九月六日に歿した。然るに安永六年|丁酉《ていゆう》に四十、寛政四年|壬子《じんし》に五十五、同九年|丁巳《ていし》に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。齢《よわい》を記《き》するごとに、殆《ほとん》ど必ず差《たが》っているのは何故《なにゆえ》であろうか。因《ちな
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