み》にいうが過去帖にもまた齢八十三としてある。そこでわたくしはこの八十三より逆算することにした。
その二十
晋《しん》の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子|善直《ぜんちょく》というものを挙げて、「多病不能継業《やまいおおくぎょうをつぐあたわず》」と書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四|言《げん》の多きに及んである。瑞仙は痘を治《ち》することの難きを説いて、「数百之|弟子《でし》、無能熟得之者《よくじゅくとくせるものなし》」といい、晋を賞して、「而汝能継我業《しこうしてなんじよくわがぎょうをつぐ》」といっている。
わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水の初《はじめ》の名であろうと思った。京水の墓誌に多病を以て嗣《し》を廃せらるというように書してあったというのと、符節は合《あわ》するようだからである。過去帖に従えば、庶子善直と姪《てつ》京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかという疑《うたがい》が、今に迄《いた》るまでいまだ全くわたくしの懐《かい》を去らない。特に彼《かの》過去帖に遠近の親戚《しんせき》百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙のただ一人の実子善直というものが痕跡《こんせき》をだに留《とど》めずに消滅しているという一事は、この疑を助長する媒《なかだち》となるのである。
そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が刺《そし》ってあるのを見ては、忌憚《きたん》なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を記《き》して、一の抑損の句をも著《つ》けぬのを見ては、簡傲《かんごう》もまた甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいというのはこれである。
わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、後《のち》にその師となるべき人々を数えた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であった迷庵、三十一歳であった※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《えきさい》、二十九歳であった蘭軒の三人と、京水とであって、独り京水は過去帖を獲るまでその齢《よわい》を算することが出来なかった。なぜというに、京水の歿年が天保七年だということは
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