さてその抽斎が生れて来た境界《きょうがい》はどうであるか。允成の庭《にわ》の訓《おしえ》が信頼するに足るものであったことは、言を須《ま》たぬであろう。オロスコピイは人の生れた時の星象《せいしょう》を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿《れっしゅく》を数えて見たい。しかし観察が徒《いたずら》に汎《ひろ》きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての大己《たいこ》である。
抽斎の経学の師には、先ず市野迷庵《いちのめいあん》がある。次は狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》である。医学の師には伊沢蘭軒《いさわらんけん》がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水《いけだけいすい》である。それから抽斎が交《まじわ》った年長者は随分多い。儒者または国学者には安積艮斎《あさかごんさい》、小島成斎《こじませいさい》、岡本况斎《おかもときょうさい》、海保漁村《かいほぎょそん》、医家には多紀《たき》の本末《ほんばつ》両家、就中《なかんずく》※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、伊沢蘭軒の長子|榛軒《しんけん》がいる。それから芸術家|及《および》芸術批評家に谷文晁《たにぶんちょう》、長島五郎作《ながしまごろさく》、石塚重兵衛《いしづかじゅうべえ》がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に出《い》づるを待ち受けていたようなものである。
その十三
他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中《うち》には、現に普《あまね》く世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記を挿《さしはさ》もうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに与《あずか》って力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。
市野迷庵、名を光彦《こうげん》、字を俊卿《しゅんけい》また子邦《しほう》といい、初め※[#「竹かんむり/員」、第4水準2−83−63]窓《うんそう》、後迷庵と号した。その他|酔堂《すいどう》、不忍池漁《ふにんちぎょ》等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説《すいどうのせつ》を作ったのが、『容安室文稿《よう
前へ
次へ
全223ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング