新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力を費《ついや》したものは、書肆《しょし》博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時|世人《せいじん》を啓発した功はあるにしても、概《おおむね》皆|時尚《じしょう》を追う書估《しょこ》の誅求《ちゅうきゅう》に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。そして保さんは自らこれを知っている。畢竟《ひっきょう》文士と書估との関係はミュチュアリスムであるべきのに、実はパラジチスムになっている。保さんは生物学上の亭主役をしたのである。
 保さんの作らんと欲する書は、今なお計画として保さんの意中にある。曰《いわ》く本私刑史、曰く支那刑法史、曰く経子《けいし》一家言、曰く周易一家言、曰く読書五十年、この五部の書が即ちこれである。就中《なかんずく》読書五十年の如きは、啻《ただ》に計画として存在するのみではない、その藁本《こうほん》が既に堆《たい》を成している。これは一種のビブリオグラフィイで、保さんの博渉の一面を窺《うかが》うに足るものである。著者の志す所は厳君《げんくん》の『経籍訪古志』を廓大《かくだい》して、古《いにしえ》より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあるといっても、あるいは不可なることがなかろう。保さんは果して能《よ》くその志を成すであろうか。世間は果して能く保さんをしてその志を成さしむるであろうか。
 保さんは今年《こんねん》大正五年に六十歳、妻佐野氏お松さんは四十八歳、女《じょ》乙女さんは十七歳である。乙女さんは明治四十一年以降|鏑木清方《かぶらききよかた》に就《つ》いて画《え》を学び、また大正三年|以還《いかん》跡見《あとみ》女学校の生徒になっている。
 第二には本所の渋江氏がある。女主人《おんなあるじ》は抽斎の四女|陸《くが》で、長唄の師匠|杵屋勝久《きねやかつひさ》さんがこれである。既に記《き》したる如く、大正五年には七十歳になった。
 陸が始《はじめ》て長唄の手ほどきをしてもらった師匠は日本橋|馬喰町《ばくろうちょう》の二世杵屋勝三郎で、馬場《ばば》の鬼勝《おにかつ》と称せられた名人である。これは嘉永三年陸が僅《わずか》に四歳になった時だというから、まだ小柳町の大工の棟梁《とうりょう》新八の家へ里子に遣られていて、そこから
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