いそう》甚しく、発熱して就蓐《じゅじょく》し、終《つい》に加答児《カタル》性肺炎のために命を隕《おと》した。嗣子終吉さんは今の下渋谷《しもしぶや》の家に移った。
 わたくしは脩の句稿を左に鈔出《しょうしゅつ》する。類句を避けて精選するが如きは、その道に専《もっぱら》ならざるわたくしの能《よ》くする所ではない。読者の指※[#「てへん+適」、第4水準2−13−57]《してき》を得ば幸《さいわい》であろう。

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山畑《やまはた》や霞《かすみ》の上の鍬《くわ》づかひ
塵塚《ちりづか》に菜の花咲ける弥生《やよい》哉《かな》
海苔《のり》の香《か》や麦藁《むぎわら》染むる縁の先
切凧《きれだこ》のつひに流るゝ小川《こがわ》かな
陽炎《かげろう》と共にちらつく小鮎《こあゆ》哉
いつ見ても初物らしき白魚《しらお》哉
牡丹《ぼたん》切《きっ》て心さびしき夕《ゆうべ》かな
大西瓜《おおすいか》真つ二つにぞ切《きら》れける
山寺は星より高き燈籠《とうろ》かな
稲妻の跡に手ぬるき星の飛ぶ
秋は皆物の淡きに唐芥子《とうがらし》
手も出さで机に向ふ寒さ哉
物売《ものうり》の皆|頭巾《ずきん》着て出る夜《よ》哉
凩《こがらし》や土器《かわらけ》乾く石燈籠
雪の日や鶏《とり》の出て来る炭俵《すみだわら》
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 明治四十四年には保の三男純吉が十七歳で八月十一日に死んだ。大正二年には保が七月十二日に麻布《あざぶ》西町《にしまち》十五番地に、八月二十八日に同区|本村町《ほんむらちょう》八番地に移った。三年には九月九日に今の牛込|船河原町《ふながわらちょう》の家に移った。四年には保の次女冬が十月十三日に二十三歳で歿した。これが抽斎歿後の第五十二年から第五十六年に至る事略である。

   その百十二

 抽斎の後裔《こうえい》にして今に存じているものは、上記の如く、先ず指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、継嗣となったものである。経《けい》を漁村、竹逕《ちくけい》の海保氏父子、島田|篁村《こうそん》、兼松|石居《せききょ》、根本羽嶽に、漢医方を多紀|雲従《うんじゅう》に受け、師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、旁《かたわら》
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